今年の夏、富士高校の卒業生で多摩美術大学出身でもあるお二人が、偶然、東京・銀座の目と鼻の先で、それぞれ個展を開催した。23回卒の野田收さんがACギャラリー(中央区銀座5−5−9阿部ビル4F)で6月25日から30日まで開いたのが「野田收ガラスワーク」。32回卒の山口みちよさんが松屋銀座(中央区銀座3−6−1)7階遊びのギャラリーで6月22日から28日まで行ったのが「山口みちよ鍛金展」。一足早く個展を終えた山口さんに、野田さんの個展会場までお越しいただき、お二人にお話を伺った。(聞き手・27回卒、落合惠子、記事構成&写真・27回卒、相川浩之)



ーーお二人は、どんなことを思われながら、作品を作られるのですか。
野田 ドキドキ、そわそわ、こうしたらどんなふうになるんだろうか、と思いながら新島ガラスを使って作品を作っています。もちろん、先輩諸氏からいろいろな技法は学んでいるのですが、自分でもいろいろ試してみるのが楽しいし、それがあるから集中して仕事ができるんだと思います。



山口 野田さんはガラスで自由な創作をなさっているのですね。
 金工の場合は、ある程度計画的に仕事を進めなければならない部分があります。素材が硬くて、なかなかいうこときかないので、手順を追って積みかさねる形で作業をしています。
 最初に、何をつくるかを考え、スケッチをしたりモデルを作ったりする段階では、わくわくドキドキなのですが、作っている最中は、一歩一歩進んでいる感じです。もちろん、作品ができあがる瞬間はうれしいですけれど。



ーーお二人の作品は、「置いておく」ものではなくて、手に触れたり、使ったりするものだと思います。お二人の作品を拝見していたら、「使って、使って」と呼びかけられている感じがしたんです。



野田 生活の中で使ってもらえたらいいなと思います。作品を見て、自分なりの使い方を発見し、毎日、直接触れて道具として使っていただけるとうれしいです。
山口 金工も同じで、花入れでも花が入って完成するような器を目指しています。
野田 “完成形”にしてしまうと収まりはいいかもしれないけれど、訴えかけるものがなくなってつまらない。
 どこか足りない感じがいいと思います。
 あとは使う方が付け加えていくーー。



ーー“自分”を押し出しすぎるとダメだということですか。
野田 若いころは自分を押し出していました。
山口 そうですね。これでもか、と表現していましたね。
野田 でも、今は、完全な形というより、使われる方によって、成長していくものであってほしいと思います。
山口 私がやりたかったのは彫刻ではなく、工芸の世界なんです。工芸は使い手がいます。



野田 彫刻は、距離おいて全体をみるものだと思いますが、工芸品は直接手に触れられる。目だけでなく、皮膚感覚も使って、全体で感じるものです。使ってもらってよかったといわれるとうれしいです。
 けれども器として使う部分以外のところで、自分の思い入れ、わがままを入れる。
 彫刻的なものと工芸的なものとのせめぎ合いがあるんですね。

ーー茶道の世界では、お茶碗を作ったり茶杓削ったりする方が多いです。道具に対する関心が外側にあるだけではなくて、作るところに入ることで、道具がいとおしくなる。
使う時にも、道具に対する思い入れがあったほうがうまく使えるらしいです。
山口 作るところに携わってそうした思い入れができてくるのはいいですね。
野田 人と人が、使ったり作ったりすることを通じて、分かち合うものが生まれるんでしょうね。
僕の場合は使ってくださる人の声を大事にしています。それが、次の作品のきっかけになったりする。
山口 自分が納得するものを出すというのが基本です。でも、自分自身、どういう個性があるか、よく分からない。でも、ほかの方から「個性的な素材の扱いをしていますね」といわれるとそうなんだと気づいたりします。

ーーこれからこういうものを作りたいとか、挑戦したいものとかはありますか。
野田 昔から水が落ちる音や風の音を形にしたいと思っていて、水の形、風の形といったテーマで作品を手掛けているのですが、実際に、水と一緒に使えるものとか音が出る器とか、そういうものももう少しで生まれそうです。

ーー新島ガラスという素材からもっと何か別のものが生まれそうなのですか。
野田 例えばガラスに穴をあければ風の音がぴゅーっとする。いま自分が手がけているふだんの空間で使うものとは別に、外にも置けるものを考えています。
 通常、ガラスというのは作る目的に合わせて、ほかの成分を加えるんですが、新島ガラスは、天然のまま使っています。新島ガラスの場合は自然の緑の色を生かして製品を作っています。最近ではいろいろな色を使っていますが、20数年間、ずっと単色の作品を手がけ、バリエーションは、厚みを変えたり、作り方を変えたりして出してきました。

ーー山口さんも、素材へのこだわりはありますか。  



山口 私は最初から鉄が好きでした。鉄は、普通に使われているものを見ると工業的で硬いイメージがあるんですが、火に入れてたたくと、柔らかい表情が出ます。表面には鉄独特な錆びの色を出すことができます。錆びは中の金属を守っているんです。

ーー錆びって年月を経ることでさらに変化したりするんですか。

山口 鉄の場合、外に置くとさらにさびたりする変化はあります。わざと長い間、外においてさびさせたものを作品にする工芸家の方もいらっしゃいます。変化する面白さが鉄にはあるんですね。呼吸しているといいますか。
 鉄が好きで、「自分椅子」というシリーズを毎年、1つずつ作っています。セルフポートレイト(自画像)のつもりで、作っているんです。
 最近、展覧会では小さいもの、きれいな感じのものが人気があるので作っていますけれど、25年前に松屋銀座で開いた初個展は、椅子だけを展示しました。ほかのことは考えずにそれだけで行こうと思ったんです。
 そのころに立ち返って、やりたいことはちゃんとやろうと思って、椅子はちゃんとやっていこうかなと思います。

ーー器も、見ていて、ここに何を入れようかな、と思うんですけれど、椅子も、誰が座るのかな?何を置くのかな?といろいろ想像を掻き立てられます。
山口 椅子は脚があるので人間に近いものを感じますし、身体にフィットするという意味でもとても魅力的です。

ーー野田さんは先ほど、最近は新島ガラスの本来の色以外の色も使うようになってきたとおっしゃられていましたが、色をもっと使ってみたいというお気持ちはあるんですか。
野田 我々が使っている色ガラスは、工芸的に開発された色ガラスで、今回使ったのはニュージーランドとドイツで作られている色ガラスです。全世界のガラス作家はそれを使っています。
 焼き物を作る人は、金属を入れたりして、自分で工夫して色を出しています。新島ガラスでもそうした挑戦はできるのかもしれませんが、やり始めたら、中途半端にはできないので、大変な作業になると思います。それよりは、造形的、技術的にやってみたいことがまだまだありますので、それを優先したいです。
 今回展示したモザイク状の色ガラスは、妻の板ガラスを使わしてもらっているんです。普通の色ガラスなんだけれど、新島ガラスがカバーしていることで、色みがしっとりしました。発色は抑えられるんですけれどしっとりした味わいがいいなと思いました。

ーーいま、奥様のお話が出ましたが、野田さんの奥様も野田さんと同じ多摩美大出身で、山口さんとご主人も多摩美大出身。4人で同窓会ができてしまうんですね。
山口 クラフトデザイン協会が実施していた「日本クラフト展」に注目していて、協会の理事をされていた野田さんに協会に入る時に推薦状を書いていただきました。将来有望だと書いてくださって。そこに出品したことが勉強になりました。
 最初、野田さんは「多摩美の先輩」としか思っていませんでした。高校の先輩でもあることは、かなりあとになって知りました。会報「若竹」に野田さんの記事が載っていて驚きました。

ーー野田さんは高校時代は、将来どうするかはあまり考えられなかったそうですね(笑)
野田 部活のサッカーを3年までやってしまったからね(笑)。

ーー山口さんも3年生になってからようやく考えられた(笑)。
山口 オーケストラ部の部活が終わった後、佐藤先生に相談したら、反対されなかった。
いいものを見る感覚はあるから、いいんじゃないのと軽く言われた。
野田 僕は二浪してからデッサンを始めました。高校時代は音楽専攻だったんです。美術の先生とはコンタクトはなかったんです。
美術はもちろん、嫌いではなかったんですが、それが職業的に成り立つとは思っておらず、自分のなかでそういう範疇に入ってこなかったんです。
 中学まで新島の中学にいて、父親が校長で東京に異動することになって、僕も東京に来ました。1年目は父と姉と3人の生活でした。
勉強に追いつくのが大変で、9月には1ヵ月肺炎で入院しましたし。女性がノートとってくれたりして大事にしてもらいました。
 1クラス49人のうち半分以上が女性でした。



 その頃は文科系の仕事に就くと漠然と思っていまいた。
 二浪して、あるとき伊勢丹に立ち寄ったら、別館2階にデッサンする学校があったんです。こんなところに勉強する場所があるんだと思いました。
 二階に行ったら女性の受付の方がいました。彼女が、絵を描いてごらんと言うんです。ブルータスを描きました。石膏像を描くのは初めてでした。
立体感出そうとして影を入れたりしたら、技術がないから、線で真っ黒になりました。3時間くらいかけて描き、講評会で、「下手だけれど迫力がある」と言われました。何を褒められているかもわかりませんでした。
 ただ、そのとき、我を忘れ没頭しました。時間を忘れ−−。これだけ熱中できたのはサッカー以外はそれまでありませんでした。
 こういうこともできるんだと思って、そこに1年通いました。
 なんでもできると思うと集中できないというのがありますよね。失敗挫折して、自分はこういうことが好きなのかなと思って、美術の世界に入ることになりました。
 9月くらいに美術の勉強を始めて冬の試験に受かるわけはありません。
お茶の水美術学院に入って1年勉強して多摩美に合格しました。

ーー山口さんはが多摩美に入ったきっかけをもうすこし伺えますか。
 山口 美術専攻ということに迷いはありませんでした。ただ、憧れがあって、部活では、オーケストラ部に入りたかった。部活にすべてを捧げて、家に帰ってはフルートを練習していました。
 美術については、子どものころから工作をするのが大好きでした。時間を忘れて、ご飯も食べるの忘れて彫刻刀を使っていました。その作業自体が好きだったんだと思います。
 高校に入って、油絵もしたのですが、挫折しました。でも、佐藤先生が絵本を作ったり、版画を作ったりいろいろなカリキュラムを用意してくれていて、私は、立体的な木彫りの人形を作ったりしました。先生はなにも言わず、
好きなことやらせてくれました。
 美大は工芸科を受けたかった。木工をやりたかったんだと思います。
 木工を漠然とイメージしながら新宿予備校に通いました。
3年のときに代々木ゼミナールに行って、デッサンを初めて描いたら、あまりにもひどいデッサンで、落ち込みました。それでも美大に行きたいという気持ちは変わらず、芸大を第一志望にしたのですが、受かったのは多摩美でした。



 初めはプロダクトデザイン科に入りました。1年と2年のときに一通りプロダクトデザイナーになるための教育を受けました。
 3年になってから工芸科に移り、ガラスか金工(金属工芸)を選べと言われました。こつこつ木工をやりたかった私としては計画的に積み重ねて作る
金工がいいと思い、金工を選びました。
 そこで鉄が好きだということがわかり、4年になる直前にやっと自分の方向が決められました。
野田 1977年くらいに多摩美に新しい科を作ろうという話が出てきました。ガラス、そして、金工も一緒に作ろうということになりました。
 そして「クラフトデザイン」という枠組みで二つの授業が始まりました。
 僕はその1期生なんです。
 最初はなにもなくて、木工室の外にテント張って、火を焚いていました。金属の人たちは表でカンカンやっている。
 自分たちで道具や設備を作りながら、始めたんです。1年後にプレハブができました。
 僕は最初、プロダクトデザイン科にいたのですが、デザインワークより手で完成品作りたいという欲求がもともとありましたので、4年のとき、できたばかりのクラフトデザインに移ったのです。
 そこで出合ったのがガラスでした。
 ただ、そのときには新島ガラスにつながるとは思ってもみなかったです。

ーーガラス工芸を始めたときには新島ガラスとの結びつきはまったくなかったのですね。
 コーガ石(抗火石)という新島で産する火山岩をくり抜いてガラスを乗っけてみようとは考えことはあります、石自体をガラスにしようというところまで考えは及ばなかったですね。
 僕が留学から帰ってきたときに、初めてそういう話があったのです。
 イリノイ州立大学の大学院で3年ほど勉強して帰ってきたときに、新島の役場の担当者からコーガ石をガラスにしたいという話があったのですが、そのときは工場を誘致するような話だったので「それは違う」と思いました。
 留学中は世界中のトップレベルのガラス職人がシアトル郊外に集まり、ワークショップを開催していました。夏はそこでアシスタントをして過ごしたりしていましたので、新島でも、いろんな人たちが出入りできるガラスの施設を作りたいと思いました。小さい瓶つくったりする工場を作るのではなく、ガラス自体の可能性を探り、いろいろな体験できる施設を作るべきだという報告書をまとめ、議員さんを長野県安曇野市にあるあずみ野ガラス工房などに案内し、
「地域性もあるし、原料もあるので、自分たちで勉強しながら村の人が育てる施設にしないと長続きしない」と強調しました。
 工場でなく、新島の教育や産業に活用できるような施設にしたいという思いは「新島ガラスアートセンター」として実現することになり、言った本人が責任者となりました。最初は村が4000万円くらいの予算で計画しましたが、国の補助金もついて1億8000万円を投じて作ることができました。
 新島で生まれ育ちましたが、新島とは縁があります。新島から東京に移り、富士高校に入ったときの担任が新島先生ですから(笑)。

ーー山口さんは、多摩美を卒業されてから、どんな経緯で作家になられたのですか。



山口 卒業したらふらふらしないで就職しろと父からも言われていたので、就職課に求人がきていたハンドバッグの会社に就職しました。
 そこでいろいろなことやりました。海外のブランドをこちらでアレンジして販売したりしていましたが、会社がバッグ以外の分野にも事業を拡大していくことになりました。そのとき、電話機の自由化に伴い、新しい電話を出すというプロジェクトが始まり、その担当になりました。
 そのときにプロダクトデザインがようかく役に立つと思って始めたのですが、非常に売れまして、その後、いろいろな文房具を出すというようなときもわたしが担当するようになったのです。
 そのとき、ファッション業界よりものをつくる方がいいなと思ったんです。
 5年間、社会ってどうなっているという勉強はさせてもらいました。
 そういう勉強はできましたが、主人が多摩美に勤めていて、自分の仕事場がほしいということを言い出しまして、会社の仕事も面白くなっていましたが、ものづくりをしたいと思い、一緒に独立したんです。5年間のブランクの後、金工に戻りました。

ーーお二人とも回り道をされているようで、それがいまに生きているのですね。

野田收さん(新島ガラスアートセンター館長)
1952年 東京都新島生まれ
1978年 多摩美術大学立体デザイン科クラフトデザインガラスコース卒
〜80年 同立体デザイン研究室勤務
1984年 イリノイ州立大学大学院卒
    野田ガラス工房設立
1986〜90年 多摩美術大学非常勤講師
1988  新島ガラスアートセンター設立
現在  同ディレクター
<仕事について>新島ガラスアートセンターというところを村から委託されて運営しています。そこでは新島ガラスという新島の火山石を使って作った素材の開発からものづくり、さらに研修なども行っています。毎年10月、あるいは11月に新島国際ガラスアートフェスティバルを開催、ワークショップも行っています。観光客向けには新島ガラスでグラスなどを作る体験教室も開いています。
 作家活動は大事にしていて、年に1回個展を開きます。作家をしながら啓蒙活動に力を入れています。
「野田收ガラスワーク」








山口みちよさん(鍛金作家)
多摩美術大学立体デザイン科クラフトデザイン金工コース卒(1984年)
栃木県に工房設立(1989年)
茨城県に「アトリエ金工やまぐち」設立(1998年)
日本クラフトデザイン協会会員
茨城工芸会会員

<仕事について>
 いろいろな金属を使って工芸品をつくっています。
 金属は鋳物とは違い、型を作ってそこに金属を流すというのとは違いまして、もともとある金属の板とか棒材を赤く熱して、金槌で叩くことによって、いろいろなものを変形させてものを作ります。一般には「鍛金(たんきん)」と言われる作業をします。もともと日本にある金工の技法の一つです(鋳金、彫金、鍛金の3つがある)。わたしの作品では、鍛金の中にも彫金の技術がちょっと入ったりしています。
 工芸は純粋なアートというより、造形に、用途というものが必ず付いてきますので、ある程度限定された世界の中で、自分を表現します。
 百貨店、ギャラリーなどで個展を開催しています。
「山口みちよ鍛金展」






 富士高校で地理の教鞭をとっていた新島岩夫先生の講義を聴く「第2回 新島岩夫先生と語る会」が、2016年6月5日、東京駅近くの貸会議室で開かれた。第1回は、2015年10月、高校33回卒のみの参加で開催したが、「他の期の方にもぜひ聞いてもらいたい」と、幅広く呼びかけを行い、22回卒1人、27回卒2人、28回卒1人、30回卒2人、33回卒3人、40回卒4人の計13人が参加した。


(13人が参加)

 第1回は、戦後70年ということで、「海軍兵学校」出身の新島先生に、「戦争」について、実体験を交えて講義していただいた。しかし、この回だけでは語り尽くすことができず、第2回講義をお願いした。
 第2回は、第二次大戦を中心に朝鮮戦争、ベトナム戦争までが講義の範囲だった。先生は、現役時代と変わらない口調で3時間、ほとんど休みなく語ってくださった。


(お手製の資料を使って講義)

 特に印象に残った内容は、次の通り。
1.先生自身が広島県江田島市で8月6日に体験した原爆のお話。爆心地から9キロ離れていたのにすごい爆発音と衝撃(先生曰く震度7クラス)があった。


(昭和20年8月6日に先生が9キロ離れた江田島海軍兵学校で目撃した広島上空のキノコ雲。きれいなピンク色した雲上部が印象に残っているそうだ)

2.終戦直後の8月20日に江田島から静岡へ復員する際、広島駅で約6時間の乗継待ちがあり、その短い間に被ばくした。静岡に着いた数日後に頭髪が完全に抜け落ちてしまったが、その後また生えて元に戻った。80歳の時に突然喀血し入院したが、被爆が原因ということで100万円くらいの医療費が無料になった。その時まで被爆している自覚がまったくなかった。
3.海軍兵学校入学後の1ヵ月間は上級生から毎日100発以上殴られた。その数年後に歯医者に行ったら「あなたの口内はボクサーのように傷だらけですよ。いったい何をされたんですか?」と驚かれた。
 体験者でしか語りえない貴重なものばかりでした。会終了後の懇親会でも富士高時代の裏話などもたくさん話され、87歳とは思えないほど、終始お元気だった。


(会終了後の懇親会でお酒が入ってご機嫌の先生)

 新島岩夫先生は富士高校で昭和30年代後半から20年以上地理の教鞭をとられた。先生は昭和20年4月に広島県江田島にある海軍兵学校に入り8月15日の終戦までそこで過ごされた。戦争体験された方たちが少なくなっている現在、当時の体験を交えて講義していただけたのは大変幸運だった。

(以下は講義用資料)






































(高校33回卒 石渡研)
 都立富士高校などで38年間、美術教師を務めながら、世界各地の史跡や辺境の地を精力的に取材し、民族固有の伝統、文化、祈りのかたちを描き続けてきた佐藤美智子先生。先生が1961年から2015年までに49回にわたる個展で発表された130号クラス(194cm×146cm)の大型作品数十点を一堂に展示する美術展「佐藤美智子50年展」を12月16日から27日まで、アートガーデンかわさき(川崎市川崎区駅前本町12−1)で開催する。企画しているのは、都立富士高校の教え子有志たち。50回目の個展は先生と教え子のコラボ美術展となる。佐藤先生に美術展開催について聞いた。(聞き手・高校27回卒・相川浩之、落合惠子)
※佐藤先生の美術展を人的、資金的に応援するプロジェクトについて、文末で紹介しています。ご覧ください。



――先生は今年1月、49回目の個展を東京・有楽町の「ギャラリー日比谷」で開かれました。節目となる50回目も来年早々、ギャラリー日比谷で開かれるのかと思っていました。なぜ、50回目は今年12月にアートガーデンかわさきで開くことになったのですか。

佐藤 50回目の個展の取材のための訪問地としてブータン行きを計画しましたが、「要介護状態で、ブータンの高地で過ごすのは、身体に負担がかかり、危険。家族の同行がなければ、ツアーに参加するのは難しい」と、ずっと利用していた旅行会社に言われました。かつてインドの高地に飛行機で行った時に、意識を失ったこともあり、旅行会社の言うことも正しいと思い、「個展は49回で終わりにする」と決めました。
 一昨年、脚立から落ち、骨折してから脚に血が通わず、首も痛い。このあたりが限界と思いました。
 新作を発表する個展は諦めていたのですが、これまで個展の準備を手伝ってくれた教え子たちが、かつてフランスで個展を開催したときのように、大きな作品を展示する展覧会を企画してくれることになり、お任せすることにしました。
 ギャラリーに、よく個展を見にきてくれた教え子たちも、私の20代、30代の作品は知らないと思います。また、30歳ごろから描き始めた仏教絵画で、フランス政府が個展を開いてくれました。アートガーデンかわさきでの美術展では、そのころの作品を含め、私のこれまでの主な作品を見ていただきたい。「入場無料」ですので、ぜひ、足を運んでください。



――1998年3月1日から20日まで、「フランスにおける日本年」の一つとしてフランスで開催された「サトウミチコ展」では、仏像を描いた作品36点が展示されたと聞いていますが、どんな経緯で招聘があったのですか。

佐藤 1997年から1999年にかけて「フランスにおける日本年」と「日本におけるフランス年」として、両国において多くの記念行事が行われ、国宝級美術品1点ずつを相手国で公開することも決まりました。日本からは百済観音、フランスからはウジェーヌ・ドラクロワの代表作『民衆を導く自由の女神』が選ばれました。法隆寺の御仏は門外不出だったのですが、そんな経緯で百済観音がフランスのルーブル美術館で公開されたところ、連日、長蛇の列ができました。仏像の人気にフランス人が驚き、仏像を描く現代作家はいないかということになって、私に話が来たのです。
 卒業生(24回卒)のHiroko Martin(向井)さんがフランス語の画集を作ってくれて、現地では通訳もしてくれました。



――先生は世界各国を回り、その地の民族、宗教、文化に関心を持って絵を描かれてきたわけですが、30代は、主に、仏像を描かれていたのですね。

佐藤 東洋には仏像や仏跡がたくさんあるので、日本軍が侵攻したような国は全部回ろうと思い、回りました。各民族の宗教に関心があった。

――人間の営みのなかでも、特に、仏像に関心を持ったのはなぜですか?

佐藤 信仰の対象として彫ったものでしょう。形となって現れた思想や信仰を見てみたかった。

――日本でも相当、仏像は見て回られたのですか。

佐藤 教師になってからは毎年、奈良や京都に行っています。琵琶湖周辺にも、十一面観音など、すごい仏像がたくさんあります。





――画家としてのデビュー作は、今年1月の個展で展示された「末人の海」ですね。「ツァラトゥストラ」の中で、ニーチェが「何の目的もなく、人生を放浪し、生をむさぼるだけの人間」とした「末人」がテーマ。抽象画ですね。

佐藤 抽象画ではありません。具象的に「末人の海」を描いています。でも、明治、大正生まれの太平洋美術展の先生方はあの絵を見てびっくりしたらしいです。筆で描いている絵ではなく、岩石みたいな絵の具を貼り付けていたので。男性が描いた絵と思ったらしいです。
 セメント会社や石材会社をたくさん調べて、いろいろな石を使いました。物理や化学の先生方に、これをキャンバスに貼り付けるのにはどういうものを使えばいいかを聞きました。かなり研究して、あの絵にたどり着きました。

――先生は、学生時代から美術の先生になろうと思っていたのですか。

佐藤 社会科の先生にもなりたくて免許は持っていました。美術関係は工芸、彫刻、絵画など、いろいろな分野を学び、免許をとりました。

――絵は子供の頃から得意だったのですか。

佐藤 小学校も中学校も高校も学校の代表で展覧会などに絵を出していました。

――先生は福島県で長く過ごされたと聞いていますが。

佐藤 小学校2年生までは亀戸にいて3年生になってから疎開で福島県の小学校に行かされました。福島は両親の故郷でしたので。

――絵はどこで学ばれたのですか。

佐藤 父は変電所に勤めていたのですが、日曜になると日本画を描いていました。特に絵を教わったことはありませんが、小学生のときに描いた遠足のときの絵は校長室に飾られました。
 私は長女で兄が5人いました。下は弟がいてその下に妹が2人。一番上の兄も絵描きになるつもりでいたのですが、父に反対されて軍人になりました。その兄は私が絵を描いているからと、私が30歳になるまで、毎月、3000円を送ってくれました。3000円というのは当時の国立大学の半年分の学費に相当する額でした。

――社会科はどんなところに魅力を感じたのですか。

佐藤 社会科は面白いです。経済も哲学も。高校のときは学校の図書館や、町の図書館、町の本屋さんに毎日立ち寄っていました。図書館の一番下に並んでいる哲学の本は全部引っ張り出して読みました。人文地理は地球を全部歩きたいから関心がありました。北極とか南極とか人が住まないところに行く気はしないんです。

――人と文化にご関心があるのですね。

佐藤 宗教と民俗に関心がありました。私が砂漠を巡ったときには今のような紛争はなかったのに、残念です。遺跡まで壊すなんて−−。

――先生は、どうして世界に憧れたのでしょうか。

佐藤 未知の世界を見たいと思いました。未知の本を読むように未知の世界を知りたかった。

――最終的には美術の先生を選んだわけですね。

佐藤 社会科は好きでしたが、社会科の先生という仕事には魅力を感じませんでした。

――美術の教師として最初に採用されたのは豊島区立駒込中学ですね。

佐藤 義務教育で一定期間教べんをとるという条件で、大学で奨学金をもらっていましたので、まず駒込中学に赴任。その後、学校群制度スタートの1967年に都立富士高校に着任、19年間勤めました。1986年に都立千歳丘高校に転任、定年まで10年、勤めました。



――美術で表現を磨くためには、技法だけでなく、物事に対する幅広い関心も必要ですね。美術の授業をどう考えられていましたか。

佐藤 学問のなかでも芸術が一番難しいと思います。「隙間」だらけだから。まだまだ研究、探検の余地がある。生徒には生まれて初めてというような経験をさせました。「表現技法」というのがあったでしょう?筆で描くだけじゃなくて、いろいろな技法を試してもらった。「ピーナッツの殻に絵の具をつけて転がすとこうなるんだよ、先生」なんて得意げに見せにくる生徒もいました。

――「表現技法」の課題は大変でしたけれど、楽しみでした。

佐藤 15、6種類は教えるわけ。あとは自分で技法を開拓してもらう。

――先生はずっとアトリエにいらっしゃいましたね。

佐藤 現在の自宅のアトリエができるまでは朝まで学校で絵を描いていました。学校がアトリエでした。

――先生というよりは作家が美術室にいた感じでした。

佐藤 でも、「教えたい」という気持ちは強かったのですよ(笑)。「美術の表現は探せば無限にある」ということを教えたかったのです。

――それを自分でもやって見せた。

佐藤 そうそう。

――僕らは先生のやられていることをもう少し見に行けばよかったんですね。

佐藤 そうですよ。

――高校生って、受け身で知識を詰め込まれていたけれども、先生は聞きにいけば、答えてくれたんですね。

佐藤 だから、美術室に入り浸っている生徒がいました。一浪二浪した生徒は書類を取りに学校に来るわけでしょう。そうすると美術室はいつも明かりがついている。それで、話し込んでいく。

――行きやすい場でした。そういえば、先生が個展を永年、開いてきたギャラリー日比谷もそんな雰囲気でした。

佐藤 ギャラリー日比谷は富士高校の21回卒の女流画家、今村圭さんの紹介で個展を開いたのがきっかけです。千代田線で行けば自宅から1本という好立地なので気に入りました。それからずっとギャラリーは変えなかった。

――個展は、ずっと1月開催でしたね。

佐藤 早く外国に行きたいでしょう。だから、個展が終わったら、すぐに飛び出す。5月搬入の太平洋美術展があるから、そのための取材に出ていました。
 学校で教えていたときには春休みと夏休みに取材をしていました。

――夏休みに取材したものが個展の新作になるわけですね。当時は今よりも世界を自由に回れたんですね。

佐藤 自由に回れました。一人旅で注意はしていたけれど、危ない目にあったことはありませんでした。

――先生は何度もフランスに行かれているようですが、フランスから美術展開催の依頼があったときは嬉しかったでしょう?

佐藤 幸運だったと思います。その時は60歳を過ぎていて退職金があったので。日通に聞いたら絵の輸送費が1000万円かかると言われたけれど、ヤマト運輸が650万円で引き受けてくれて、実現しました。
 130号クラスの大型の作品も含めて36点展示されました。そんな経験は初めてで、この12月の美術展は、同じ感じで観ていただけると楽しみにしています。



――先生の大型作品は、多面体が絵の中に隠れているような技法を使われていますが、どんな狙いなんですか。

佐藤 いろんな空間感を出すために、使っています。そうやって画面のなかに取材をしてきたいろいろな要素を表現しています。

――我々からみると、デビュー作の「末人の海」とは表現が随分変わっていますが、何かあったのですか。

佐藤 「末人の海」は、図書館で読んだ大思想全集のなかからヒントを得て、描きました。でも、実際に生の世界を見てくると、写実的に描かなければだめと思いました。アフリカの民族を抽象的に描くなんて無理です。

――表現が変わる途上はどうだったの興味があります。

佐藤 その途中を、ほとんどの人は、見ていない。

――ぜひ見たいですね。



佐藤 49回目までは自分で個展を開催してきたけれど、50回目は有志の方々がやってくださるので、私はしゃしゃり出ません。

――先生の絵に対して、「平和、反戦がテーマ」という言い方をされる方もいますが。
佐藤 アメリカは許せないと思っています。原爆を広島と長崎で実験したことは許せない。だから、アメリカには行きたくない。アメリカの絵は描く気が起きません。

――中東では一部の勢力が貴重な遺産を破壊しており、そうしたことに対する怒りはあると思います。しかし、そうしたことが動機になって絵を描かれているのではなく、描かれているものは必ずしも「平和、反戦」ではないと思うのです。先生は、なぜ、世界中を見て歩いているのですか。

佐藤 世界中を見ないと多様性がわからないからです。多様性に一番関心があります。本ではなく、現物を見なくてはという気持ちがあります。「砂漠は暑い」というのは体験しなくては。私は虚弱児だったし、いまも薬が手放せないのだけれど、現地に行って、体験したいと思うのです。

――身体に自信がないとなかなか外に出て行く勇気が出ないものですが、先生の場合、何か、かき立てられるものがあって行ってしまうのですか。ミッションを感じられているのですか。

佐藤 やはり世界地図です。当時から、社会科の部屋からでっかい地球儀を美術室に持ってきて眺めていました。世界をすべて見てみたいと思っていました。

――何カ国ぐらいを回られたのですか。

佐藤 私の記憶が正しければ、180を超える国・地域を回りました。オリンピックの入場行進を見て、まだ、行ってない国はないか、探しました(笑)。

ーー人間の営みのなかでも、特に、仏像に関心を持ったのはなぜですか?

佐藤 信仰の対象として彫ったものでしょう。形となって現れた思想や信仰を見てみたかった。

――今回の美術展では、大きな作品を中心に展示されるとのことですが、佐藤美智子先生を知ってもらいたいと思ったとき、小品もぜひ展示してもらいたいですね。やさしい小品をみると大きな作品の厳しさもわかる。対比があったほうがいいような気がします。

佐藤 小作品はいろんな方向を向いて描いています。

――先生は一昨年、脚立に足を挟んで落下、骨折をしてしまいました。入院を勧められたにもかかわらず、海外に取材に行ってしまった。あのエネルギーはどこから来るのでしょう。

佐藤 この機会を逃したら、そこへはもう行けないと思うと、諦められませんでした。

――今回は一区切りで、集大成展の開催になりましたが、描く点数は減っても、これからも、新作をぜひ描き続けてください。



佐藤美智子(さとう・みちこ)
1935年11月25日、滝野川区(現・北区)昭和町で生まれる。44年に福島県に疎開、58年まで過ごす。58年福島大学学芸学部美術専攻課程卒業。58~67年、豊島区立駒込中学、67〜86年、都立富士高校、86〜96年、都立千歳丘高校で美術教師を務める。
61年太平洋美術展初出品、文部大臣賞受賞、会友に推挙される。安井賞候補新人展に「末人の海」を出品。64年日本橋の秋山画廊で第1回個展。75年InSEA(国際美術教育学会)パリ大会参加、以後、3年に1回の学会に2011年まで参加。98年第32回個展=「フランスにおける日本年招聘展」(クレルモン・フェラン)2015年第49回個展をギャラリー日比谷で開催。

※佐藤先生の美術展「佐藤美智子50年展」は、富士高校の卒業生有志によるプロジェクトチーム(発起人・長昌浩、橋本真理子、矢野史子、佐藤清親、今泉茂徳)で準備を進めています。開催中の運営など、お手伝いいただける方を求めています。

※9月7日、佐藤先生のご自宅&アトリエで、プロジェクトチームが初期の頃の作品の”発掘”作業をしました。先生がインタビューで語っていた、「私の20代、30代の作品を、見事、発掘。文字通り、佐藤先生の50年の集大成展となりそうです。作品集の撮影も行いました。作品集もお楽しみに!













※9月18日、「佐藤美智子50年展」のプロジェクトチーム15人と広報2人が四ツ谷に集まり、佐藤先生もお呼びして、健闘を誓い合いました。プロジェクトチームは49人に膨れ上がりました。この中には駒込中学の卒業生2人、千歳丘高校の卒業生2人も含まれます。3校が協力する態勢が整いました。



※また、クラウドファンディングの仕組みを利用して、9月12日から12月11日まで、美術展開催のための資金の支援をお願いしています。ご協力いただける方は

https://readyfor.jp/projects/SatohMichikoまで。

 5月8日午後、富士高校の卒業生(27回卒)で、東京女子医科大学消化器外科主任教授の山本雅一さんが、都立富士高校附属中学校の2年生120人に対して、「1外科医からのメッセージ」と題して、外科医になるまでの思いや、影響を受けた人、仕事や人生に取り組む姿勢などを語った。「目標を持ち、強く念ずれば、思いはかなう」という力強いメッセージとともに、難易度の高い肝臓の手術の映像を紹介しながら外科医の仕事の魅力を後輩たちに伝えてくれた。



 山本さんは、東京女子医科大学消化器外科で、難易度の高い肝臓、膵臓(すいぞう)の手術を専門にしており、この分野で高度な技能を持つ専門医を育てる「高度技能医制度」の推進者でもある。



 上野校長は、山本さんの講演に先立つ挨拶で「山本先生は、富士高校の卒業生。ご縁があって1時間、いろいろなお話をしていただくことになりました。大先輩に甘えて、きょうは将来の夢を実現するヒントを得てもらいたい」と語った。終始、中学生の表情を観察しながら語りかける山本さんの話に、中学生たちはどんどん引き込まれていった。

 山本さんの講演は、中学2年生の進路探究の授業である「キャリアセミナーⅡ」として行われた。

 山本さんは、まず、様々な人とのつながりの中で、成長し、行く道を決めてきたことを思い出として語った。



 「自己紹介します。私は、富士高校の近くの方南町というところで生まれました。方南小学校と泉南中学を経て、都立富士高校に入りました。高校には、歩いてきたり、自転車で来たりしました」
 「小中高校と生活する中で非常に印に残っていることがあります。小学校のときの担任の先生が、いろんなことを経験させてくれました」
 「一つは家畜の世話。うさぎの世話とか鳥の世話とかをしました」
 「方南小学校の後ろには森があるんですが、そのころ、森を作りました。木を植えたり、花を植えたり、水をやったり肥料をやったりしました」
 「それから、木造の校舎を毎日掃除しました。モップを持ったり、ほうきで掃いたりしました。みんなで掃除するんです。楽しかった」 
 「その先生はフルートがうまく、よく吹いてくれました。私たちはウイリアムテルとか、いろいろな曲を縦笛で吹いて、一緒に合奏しました」
 「特に記憶に残っているのが、朗読。朝、授業が始まる前に、いつも面白い本を読んでくれました。先生の読み方もうまく、物語の中に引き込まれました。『トムソーヤの冒険』とかを毎日読んでくれる。本を読むのがすごく好きになりました」
 「先生は、生物のこと、生き物に対する考え方を非常によく教えてくれました。それは、命を大事にしなさい、ということだったのではないかと思うんです。小さな動物、昆虫、鳥、花を含め、すべてのものをいつくしむ気持ちがその時代に芽生えました」
 「小学校の先生との出会いが人生の中で非常に大事な出来事でした」。

 「小学校5年のときに私の父が死にました。肝臓が悪くて34歳で亡くなりました。私が11歳のときです。血を吐いて死にました。どんな病気かわかる?肝硬変という病気でした」
 「どんな病気でもいいんだけれど、肝臓がダメージを受けると、硬く変わっていきます。肝硬変になると、肝臓を流れる血液の流れが悪くなるんです。肝臓には、どこから血液が来るの?腸からくるんだ。肝臓が硬くなると肝臓の手前で血液がせき止められる。その血液が行き場所がなくなり肝臓以外のところを通ろうとする。側副血行路というんだけれど、食道とか胃を通って心臓に戻ろうとするわけ。普通の人の場合、腸の血液は肝臓を通って心臓に行くのだけれど、肝臓の悪い人はそこを通らないで、他の道を通る。そうすると、そこから血が出やすくなってしまう。それを食道静脈瘤っていうんだけれど、それで血を吐いて父は死んでしまいました」
 「50年前のことだけれど、いまだと、それで亡くなる人はいないんですよね。非常に残念です。昔は助けられなかった。医者になろうかなと思ったのは高校になってからだけれど、父のことは頭に残っていたのかな、と思います」。



 「医学部に行く、というのが医者になる前にあるんだけれども、富士高校にいて、比較的数学とか物理が好きでした。コンピューターは、いまは普通のものだけれど、当時は最先端で、これからどれくらい発展していくのかわからないくらい得体の知れない領域でした。コンピューターの仕事をしようかな、あるいは医者みたいな仕事をしようかな、と悩んだ時期がありました」
 「そのときに考えたのは人と接してする仕事が自分にあっているんじゃないかな、ということでした。人と人とのつながりのなかで仕事ができたらいいんじゃないかなと思いました。小学校の先生の影響もあったかもしれません」  
 「みなさんはこの後、高校に進むわけで、現時点では、どっちの方向に行くのかはわからないと思います。だけど、興味がある、やってみたいということをやってみたらいいんじゃないかな、と思います」。

 「高校では、バスケットボールのクラブを一生懸命やっていました。一つ上にいい先輩がいて、いまでも付き合っています。クラブ活動は楽しく、いまでもクラブの人たちと付き合いがあります。そのときの友達付き合いは本当に大事です。大事にしていただきたい」。

 「筑波大学に入りました。私は大学ができて、2年目に入った2回生でした。当時は周りに何もありませんでした。校舎と宿舎があるだけ。林、沼、舗装されていない道路。お店はない。宿舎で風呂に入って外を見ると、地平線が見えるんですよ。地平線に夕日が沈むのを見ました。すごいところに来ちゃったなあと、びっくりしました」「夜カエルが鳴くんです。こんなにでかいガマガエルがそこらじゅうにいっぱいいて、夜一気に鳴くんです。ぐわぐわぐわと鳴く。うるさくて眠れない」
 「なぜ筑波に行ったのか?いくつか大学に願書を出すので、案内を送ってくれと頼んだら、筑波大学が一番最初に来た。それで、行こうかと思いました。それだけ(笑)」
 「大学生活は、非常によかった。何もないから、夜も、みんなと話したり、飲んだり食べたり、バスケットするしかなかった。友達付き合いが濃厚な時代を過ごせました」。



 「なぜ外科医になったか。写真を見せましょう。この人。日本の外科の中で一番有名な人だと思います。中山恒明先生。厳しい顔してない?この先生が、6年生のときに講義しにきてくれました。筑波大学の外科の教授のボスがこの人だったんです。食道癌の治療成績を上げた人です」
 「当時は、食道癌の手術するとほとんどの人が死んでいました。食道癌になるとご飯が食べられないから栄養が悪い」「食道ってどこからとるか、わかる? 食道は心臓の裏にある。で、右の胸を開く。心臓はちょっと左側にあるから右側から攻めると食道にアプローチできるんだ。食道癌の手術はおなかも開いて、胸も開いて、首も開かなければいけない。3箇所開いて、食道をとったら、胃を食道のほうまで持ち上げる。そういう手術をする。ところが、つないだ胃と食道が栄養がわるいとくっつかない。治らない。この先生の時代は手術した人の9割近くが死んでいた。この先生はまず栄養をつけようとした。胃に穴を開けて栄養のチューブ入れたんです。しばらく栄養をつけて、2回目の手術で胸を開いて食道癌をとった。3回目に胃を持ち上げて食道とつないだ。それで手術で9割亡くなっていたのを3割まで落とることができた。世界中からこの先生のところに来た」。
 「この先生は講演がうまい。すごくうまい。大学の6年生のときにこの先生の話を聞いて魅せられました。どんなことを言ったかというと、外科医、特に、消化器外科医はクリエイティブ、創造性のある仕事だというんです」「なぜか。それは、おなかの臓器を、ただとるだけでなく、《再建》する。例えば、腸をとって、うまくつなぎあわせないとご飯が食べられない。つなぎ方にセンスが出てくる。いろいろな方法が考えられ、一つの手術でもいろんな工夫ができるし、いろいろなことをやることによって、患者の後の回復に資することができる」 
 「創造性にあふれた仕事であることを教えてくれたんですね」「消化器外科医は面白そうだということで、女子医大に行こう、と思ったんです」「女子医大が家から近かった、とうことも大きかったですが。職場が近いというのは非常に大事」。

 「この人は、羽生富士夫という世界的な外科医で、膵臓癌の権威です。膵臓って、どこにあるかわかる?胃の裏側にあります。世界で一番膵臓癌の手術をしたとしてアメリカで表彰されました。この先生がもう一人のボスなんですが、非常に厳しい人で、怒られっぱなしでした。口癖が「馬鹿野郎」で、ずっと馬鹿野郎と言わ続けてきました。怖いけれど温かみのある人でした」

 「もう一人。手術をしているのが高崎健先生。この人も世界的外科医です。肝臓の手術の工夫をしました。この先生も厳しい人でした」。

 「いまはだいぶ、手術が変わりました。いまはおなかを開かないで手術をするんですよね。腹腔鏡手術。おなかの中にカメラを入れて手術をします。確実に時代は変わっています。いまはおなかを開けている手術が将来はおなかを開けないで済むようになるでしょう。もしかしたら、ロボってによる手術になる」
 「いまでも前立腺腫瘍などはロボットで手術をしたりしています。なぜロボットのほうがいいと思う?一つは《よく見える》。狭いところがよく見える。もう一つは、《手が震えない》。細かい手術ができる。ロボットのアームは人の手が多少動いても動かないから、細かい手術ができるんだ。ロボットは、狭い視野での細かい手術が得意」「前立腺ってどこにあるかわかる?膀胱の出口のところにある。男性にしかないよ。お尻の穴の近くにある。そこにカメラを持っていって狭い視野で手術をする」「ロボットの視野で見ると3D で細かいところまでよく見える。視力が落ちても、手が震えてもある程度できる。高齢の外科医でも手術ができるかも。高齢の外科医に手術してもらいたい?(笑)」。

 子供たちの視点や気持ちに近いところで、語りかけるように話を進める山本さん。医師への関心が高まったと見計らったところで、一つの提案をした。

 「さて、どうだろう。手術を見てみたい人?」
 (大多数の人から手が挙がり)「ほお」。
 「じゃ、見たくない人?」
 (数人から手が挙がる)「見たくない人は見なくてもいいけれど、何分くらい見せようかな」



 「手術の映像を見せる前に、一つだけ言っておきます。私はずっと手術をやってきて、若い外科医を育てています。外科医になったとして、どんな外科医になるかというのは、自分が決めていくことだと思うんです」
 「いまから、肝臓を切る手術を見せますが、肝臓切る手術というのは、それなりのトレーニング経た人じゃないとできないんです。まず患者さんを一生懸命みる努力をする人じゃないとできない。そのうえで、自分自身がどんな外科医になるかを強く思わないといけないのです」 
 「昔は、消化器外科医というと何でもやりました。食道も、胃も、大腸も、肝臓も膵臓も−−。でも、いま細分化してきている。肝臓の医者、膵臓の医者というふうに細分化している。そうすると、そのなかで《自分は肝臓を切る外科医になりたい》と強く思わないと肝臓外科医になれないんです」 
 「これって大事なことで、別のことでも言えると思うんです。最初にまず、みなさんが、《医者になりたい》と思ったら、強く思い続けないと医者になれない」 
 「どんな仕事でも一緒。プロ野球のピッチャーになりたいと思ったら、やはり、それを思い続けないとだめです。強く思う。毎日思う。絶対なるんだと思うというのは、大事だと思います」
 「外科医になっても、どんな外科医になるかというのを自分で思い描き、こんな外科医になると思わないと、なれない」
 「これだけは真実です。私はたくさんの外科医を育ててきましたが、一部の人だけしか肝臓を切る外科医になれないです。その一部の人は強く肝臓を切る外科医になろうと思い続けただけです。思い続けて努力すれば絶対にできます」
 「(外科医の適性は)手先が器用だと、そういうことではありません。とにかく、なりたい、やりたい、と思い続けることが絶対必要です」。

 手術のビデオを見る前に山本さんが何度も強調したのは、《目標を持ち、強く念じる》ことだった。
 
 「では、手術を見ようか」
 「ちょっとだけ説明すると肝臓には血管が入っています。これが門脈で、これが動脈。この血管を処理して肝臓を切っていきます。これは肝門部胆管癌を切る複雑な手術です」
 「見たくない人は下、向いててね。音は出ないからね。いい?大丈夫?」

 (約10分、手術映像を流す)



 「これは、肝十二指腸間膜といって、ここに血管が走っている。肝臓に行く血管が。動脈と門脈が走っている。血管の周りにリンパ節というのがあって、リンパ節をとる手術。これは肝動脈。間膜のなかから動脈を取り出しているんだ。これは右の肝動脈。これを結さつ(縛って壊死させて)切る。最近はエナジーデバイスって言って、ハサミじゃなくて、このようなエネルギーデバイスを使って切っていく」
 「これは胆管。こっちに見えているのが門脈。胆管を切る。この人は癌ですから、ここまで癌があるかないかを調べるために胆管の断端を術中に病理の所見に出すんですね。この周りにあるのがリンパ腺です。肝門部胆管癌というのはこのへんに癌があるんだけれど、こういうところにリンパ節転移してくるんです。そういうのを一緒にきれいに剥ぎ取っていく手術なんだ」
 「これは左に門脈で、細い血管が走っているんだけれど、それを結さつして処理しているところです。細かい操作が必要とされます」
 「これが左の門脈でここに癌がある。だから、ここで血管が塞がれてしまう。これが肝臓です。こちら側にいく血流を遮断したので、肝臓の色が変わっているんですね。これから肝臓を切ります」
 「こちら側に向かっているのが肝静脈といわれる血管で、肝臓を切っていくときに脈管をきちんと確認しながら切っていくわけです」
 「今度は胆管を切るんです。これが胆管。糸で結んで切りますよ。胆汁がちょっと出てきます。やはり、ここに癌がないか、手術中に調べるんです」
 「腸から肝臓にいく血流なんだけれど、ここに癌があって塞がってしまっている。なので、この血管を切り取ります。血管を切って縫う。こうやって糸で縫うわけです。門脈という血管です。薄っぺらいんだけど、こうやって縫っていくんです。裁縫と一緒だよね(笑)。肝臓が取り出されます」
 「真ん中に白く見えているのが下大静脈といって足から心臓にいく太い血管です。これが右肝静脈。肝臓から下大静脈に入る、一番太い血管です。これで肝臓が取り出されました」。



 「どうだった?」
 「感想は」
 
 「リアル」「想像以上」「迫力ある」「ノーコメント」「医療ドラマの比じゃない」

 「手術のビデオを1回見たくらいでは、わからないと思うけれど、いまね、6割近くの肝臓を切ったんですよ。そこまで切っていいというのを知らなかったら手術できないわけです。もう一つは、こうやったらとれるということを知っているということです。最終的にこういう像になるというのを知っているということが重要だと思うんです。最後、肝臓を取り出したでしょう?あのときに、どういうふうになっているかを知っていれば、そこに近づけることができる」
 「そこまでやるためには、どうしても技術が必要です。技術を得るのに何年か必要です。最低でも10年かかります。道具に慣れないといけないし、さまざまなことを理解するのに時間がかかる」
 「外科医には、サイエンスとアートの両方がないとダメだと思います。それがあることで、このような仕事ができると思っています」。



 「もう一つ、みなさんにメッセージを贈るとしたら、《困難なことに挑戦する》のが重要だと思います。自分にとって困難なことって、いっぱいあると思うんだけれど、そこから逃げる人生ではだめだと思います。逃げたらあかんで、ということだと思います」
 「何かが来たら、この野郎って向かっていくくらいじゃないと、面白くないよ」「時間はすぐにたってしまいます。私自身の気持ちは富士高校にいた40年前と変わらないつもりでいるのだけれど、40年とか50年とかいう時間は、あっという間にたってしまう。そして、必ず人間は死ぬ。どうやって生きるんだと考えたときに、安易な方向に行かず困難なことにチャレンジしてほしいなと思います。そこから、新しいこと、新しい世界が開けると思うんです」。

 「これは私が、手術や講演をしに行った場所です。アジア、ヨーロッパ、南米などに行きました」



 「なぜ働くのか?を考えることも大事です。なぜ勉強するのかも一緒。なぜ働く? 生きていくため?死なないため?それはどういう意味? 大金持ちは働かない?」
 「これは、簡単じゃないね。でも、人間って、働かないと生きていけない動物だと思います。もし世の中で自分一人しかいなかったら、働くか?働かないと思う」
 「一つは、他人があって自分がいる。他人との関係で、自分自身がどう働くか。働き方によって、他人が自分を認めてくれる。そういうことが重要かな」 
 「いやいやながら働くのと、自分から進んで楽しんで働くのはどちらがいい?」
 「どうせ働くなら自分から進んでやりたい仕事をやるのがいいと思います」 
 「やりたくないことを仕事にされて、ずっとやれって言われたら、どうだろう。生きていけないね」

 「人生とは何かと問われて一言で言うのは難しいけれど、先ほど紹介した中山恒明先生は『人生とは経験である』と言いました。いろんなことにチャレンジして、いろんなことを経験してください。人生は、思いの外、短いです。みなさんの先には果てしない時間流れているように思うかもしれないけれど、そんなことはありません。ほんの一瞬です。まばたきしていると50年たってしまいます」
 「やりたいことを一生懸命やる、いろんなこと経験することが人生です。思い切り勉強し、思い切り遊び、クラブ活動もして、いろんなことを経験して、悔いのないようにやってください」。

 「このなかから医学の道に進む人がいれば歓迎します。いまは高齢化社会です。医療にすごく人材が必要と思うからです。このなかから医療の道に進んでくれる人が出てきてくれることを期待します」
(文/高校27回卒・相川浩之、写真/同・落合惠子)
 東京・霞が関の中央合同庁舎第6号館A棟の19階にある検事総長室を訪ねると、美しい海外の山々の写真が壁に飾られていた。「人生においてはワークライフバランスが大切。妻と国内外の山々に登り続け、国内の百名山はもとより、海外も南極以外の全大陸の山々に足を運びました」と、今年7月、検事総長に就任したばかりの大野恒太郎さん(高校22回卒)がにこやかに語る。検察官の仕事は忙しいが、仕事に負けず劣らず、家族や趣味を大事にする大野さん。検察のトップに上り詰めても「富士高生らしさ」は失っていなかった。



 ――奥様の佳津子(かづこ)さんは、高校3年の時の同級生らしいですね。
 
 大野 クラスでは、しょっちゅう席替えがあったのですが、そのたびに彼女の隣に座りました(笑)。彼女とは、大学卒業直前に結婚しました。すぐに生計を立てなければいけないので、司法試験を受け、法律家を目指すことにしたのです。法律家になれば、世の中の役に立て、自分の人生も開けると思いました。

 ――法律が好きだったのですか。
 
 大野 子どものころから理屈っぽいところがあったので、法律を仕事にすることは自分に向いていると思って、東大法学部に入りました。でも、大学で法律を学んでいるときは、抽象的な話ばかりでつまらなかった。ところが、司法試験に合格し、司法修習生になると、法律が俄然、面白くなってきました。法律は具体的なケースに当てはめて、初めて生きてくるんです。こういう場合は、法的にどう解決するか――。いろいろな考え方が成り立ちます。それを1つひとつ考えるのが楽しかった。

 ――司法試験に合格すると、裁判官、検察官、弁護士のいずれにもなれますが、どうして検察官を選ばれたのですか。

 大野 そのときは検事は人気がなかったのですが、アクティブで面白そうだと思いました。検事が嫌になれば、いつでも弁護士になれるという気持ちもありました。

 ――なぜ人気がなかったのでしょうか。
 
 大野 当時は、「反権力」「自由業」という点で弁護士に人気がありました。検事は給料は安く、転勤も多く、大変なだけと思う人が多かったようです。



 ――検察官というと、今の若い人は、木村拓哉主演のテレビドラマ『HERO(ヒーロー)』を思い浮かべるのではないでしょうか。

 大野 昔、放送された『HERO(ヒーロー)』は見たことがあります。検事個人の力量や正義感、取り組み姿勢が事件の処理に影響するというのは、番組が描いている通りだと思います。
 事件は、被害者を含めた当事者にとって、一生の一大事ですから、検事の毎日は真剣勝負です。検事になってすでに40年近く。仕事はきつくて大変ですが、やりがいがあり、退屈したことはありません。
 様々の事件を通して、いろいろな職業、いろいろな境遇の人に接しました。
 拘置所の取調室で、夕焼けの西の空にそびえる富士山があまりに美しかったので、自分の父親くらいの年齢の被疑者に教えてあげました。二人でしばらく無言で眺めていると、彼が突然、泣き出しました。そんなこともある人間臭い仕事です。

 ――検察が対象にする事件は普通の刑事事件だけでなく、様々な法律違反の事件がありますから、大変ですね。

 大野 様々な分野を勉強しなければなりません。たとえば、特捜部にいたときは証券取引や金融取引も勉強しました。また、検察の仕事(捜査、公判)のほか、法務省では、法務行政や制度立法も担当しました。司法制度改革では、内閣司法制度改革推進本部事務局の次長を務め、十数本の法律を成立させました。その中で,裁判員制度の導入、法科大学院の創設、法テラス(日本司法支援センター)の設立などに携わりました。



 ――捜査、公判では、どんな事件に関わられたのですか。

 大野 東京地検特捜部時代には、東京佐川急便事件、金丸事件などに関わりました。

 ――自民党副総裁だった金丸信氏が東京佐川急便から5億円のヤミ献金を受け取りながら、政治資金規制法違反の罰金が20万円だったことに、不満を漏らす国民も多かったようですね。

 大野 それで検察庁の看板に黄色のペンキを投げつけられたこともありました。その後、脱税事件で金丸氏を逮捕し、その公判も担当しました。地検特捜部には丸4年、続いて金丸事件の公判に1年従事しましたが、特捜部時代は土日もまったくないほどの忙しさでした。



 ――検事総長になられて、どんなことに力を入れるお考えですか。

 大野 捜査公判の仕組みが大きく変わりつつあります。従来取り調べで自白を得た後、その自白を内容とする供述調書を裁判所に証拠として採用してもらうというやり方が長く続いてきましたが、こうしたやり方は日本だけのものでした。そして、時代が変わってきたことにより、もはや、そのようなやり方は通じなくなってきています。したがって、これからは自白よりも客観証拠を重視する流れを強めていかざるを得ません。
 検察・警察の密室での取り調べが問題となり、取り調べの録音・録画(可視化)の対象範囲を拡大しています。そうすることになった根本の原因は、何よりも、取り調べや供述調書に大幅に依存した捜査に無理が生じていることにあると思います。だから,自白以外で証拠を集める方法も考えなければなりません。
 法制審議会(法相の諮問機関)が司法取引の導入などを含む刑事司法制度の改革案を答申しました。
 司法取引というのは、一定の企業犯罪や暴力団が関係することの多い薬物犯罪等において,実行犯に、「真実を話せば、起訴をしない、あるいは求刑を軽くする」というような約束をして共犯について正直に話をさせ、背後にいる首謀者に迫るやり方で、諸外国においては広く採用されている制度です。独占禁止法の改正で導入された課徴金減免制度(リーニエンシー=談合やカルテルを最初に申告した会社は課徴金が全額免除され、刑事告発も事実上免れるという制度)を導入し、成果を挙げていますが、これとも通じるところがあります。かつての企業の犯罪では、上司の命令には絶対に逆らわない社員ばかりでしたが、いまはコンプライアンスに反することをすれば会社はつぶれると考える社員も多くなっています。犯罪を明らかにすることで、会社を救おうという考えになれば、取引に応じる社員も出てくるでしょう。
 「取引」というと印象は悪いのですが、正直に話をしたものが損をしないようにする制度だとも言え,事件の全容を解明したり、世の中をよくするといった正当な目的の実現のためには司法取引も一つの選択肢になると思います。
 
 ――裁判員制度などの司法制度改革の次に、検察改革に取り組まれようとしているのですね。

 大野 未来志向の検察改革が必要です。これまでのやり方でも無理をすれば数年は持つかもしれないですが、20~30年後までは絶対に持たない。裁判員制度の導入時は法務省、裁判所にも反対論が多かったのですが、司法制度改革を進めた結果、今や裁判員制度は良い制度として定着しつつあります。検察改革も屈せずに進めたいですね。



 ――これから法曹界を志す、高校の後輩たちにメッセージはありますか。

 大野 どんな仕事でも組織の論理と自己の信念の折り合いをどうつけるかが問題になりますが、法曹界は、基本的に、正論、合理性が支配する世界です。
 民主国家において法秩序は市民生活や社会・経済の基盤です。司法制度改革により「社会生活における医師」としての法曹の活動領域は今後、ますます拡大し、国際化も進んでいくと思います。
 法律を学んで社会の役に立ちたいという志のある人は、臆することなく、法曹界を目指して、能力や個性を発揮してもらいたい。
 しっかり法律を勉強するのは当たり前ですが、人間相手の仕事ですから、視野が狭く面白みのない人は伸びないと思います。法律以外にも、いろいろなことにチャレンジしてほしいです。

 ――法曹界で活躍されている富士高校OB、OGは多いのですか。
 
 大野 検察だけでなく、裁判官、弁護士、法学の研究者として活躍されている人がかなり多いと思います。例えば、今の高裁長官や法務省局長の中にも富士高のOBがいますよ。
(インタビュー・構成/高校27回卒・相川浩之)


大野 恒太郎 (おおの・こうたろう)氏
1952年4月1日東京都生まれ。1970年都立富士高校卒業。1974年東京大学法学部卒業、司法修習生。1976年検事任官、東京地方検察庁検事。2001年内閣官房司法制度改革推進本部事務局次長、2004年宇都宮地方検察庁検事正、2005年最高検察庁総務部長、2007年法務省刑事局長、2009年法務事務次官、2011年仙台高等検察庁検事長。2012年東京高等検察庁検事長等を経て、2014年7月18日、検事総長。
 「横尾英子日本画展~漱ぐ」(11月1日~16日、東京・杉並の葉月ホールハウス)のオープニングイベントで、横尾英子さん(高校31回卒)と三菱一号館美術館館長・美術史家の高橋明也さん(高校24回卒)の対談が実現した。テーマは「ようこそ、高橋明也先輩!~同窓生として語りたい、絵画人生へのいきさつと覚悟」。菅野朝子さんのヴァイオリン・ソロの後、二人は、絵画の道を志したきっかけから、美術論まで、幅広く語り合った。





横尾 今日は3連休の初日にもかかわらず、お集まりいただき、ありがとうございました。

高橋 私は、住まいが、たまたま、ここから歩いて5分ぐらいのところなので、すごく近かったです(笑)。
 前に私が都立富士高校の同窓会「若竹会」の講演会でお話ししたのが、今日のイベントのきっかけなんですよね。

横尾 私は高橋先輩のお話は高校生時代から美術の先生に伺っていてお名前は存じていたのですが、先日、講演会で先輩のお話を伺って、入るべくしてこの世界に入られたのかなと思いました。今日は私の個展にわざわざ来ていただき光栄なのですが、そのあたりからお話を始めていただけると−−。



高橋 たまたま、こういう仕事をずっとやっていますけれども、高校時代は自分が将来何をやるのかは、よくわかっていなかったと思います。
 高校時代は新宿も近く、よく授業をサボって名画座やATG(日本アート・シアター・ギルド)などを見に行ったりして、映画は面白いと思いましたし、土方巽の舞踏や寺山修司、唐十郎の芝居を見て感動したりしていましたので、必ずしも美術館業界に足を踏み入れると確信していたわけではありませんでした。偶然と必然が重なって、気がついてみれば、美術館に何十年も関わってきてしまいました。

横尾 先日、同窓会の講演会で高橋先輩が小学校6年生のころにお父様と一緒にフランスに行かれていたというお話を聴きました。そのころは、日本人学校がなくルーヴル美術館にまるで遊び場のように通っていて、ルーブル美術館のどこに何があるのかは日本人で一番よく知っていたというお話を伺い、そういう人が世の中にいるんだなあと思いました。
 私は家に、画集などもなく、絵といえば、教科書に出てくるような絵しか周りになくて、本物をみると、こんなに大きいんだとか、意外に小さかったとかいった感じで、驚きの連続でした。そうやってずっと絵を見てきました。
 子供のころから、本物の絵をご覧になるというのはどういう感じだったのでしょう。

高橋 ルーヴルに毎週毎週行って、暗記するくらいコレクションを見ていました。そういうのが今の職業に就くきっかけと公式には言っていますけれど、下地があるんですよね。
 僕は漫画少年でした。あのころは漫画雑誌もろくになかったころですが、散髪に行くと、待合室で『冒険王』を読んだりしていました。もっと、前ですと、
貸本屋の棚の左から右まで全部読んだという記憶があります。
 あのころって、漫画でいろいろなジャンルがあって、世界名作文学を漫画で読めるような全集もあったし、科学的なことを全部漫画で読ませるものもありました。大学くらいまでの知識は、小学校の前半ぐらいに漫画でインプットしてしまいました。
 ですから、イメージから入るというインプットの仕方は慣れていましたね。



 父親が早稲田の教師をしていて、パリ大学との交流で、たまたまパリに1年いたものだから、イメージや造形から入ることが加速した感じでした。
 そのころはまだパリに日本人学校がなく、1年間どこにも行かず遊んでいました。当初はフランス語ができないから、視覚情報だけがどんどんはいってくる感じでした。
 美術品だけでなく建築を見るのもすごく好きで、そういうことを毎日していたので、それが蓄積されたのでしょうね。

横尾 すごいことですよね。多感な時期に−−。

高橋 得難い特殊経験だったと思います。船で80日間往復して、アジアの国は全部見ました。60年代半ばだと、まだ戦後のにおいが残っていて、マニラなどは「日本人は憎まれているから危険」と言われ、船から降りられなかった。
 アジアの国々はまだ貧しく、悲惨なさまを山のように見てしまったので、楽しく、美しいものを見るのが救いでした。紅海に入ってシナイ山を見たり、エジプトのピラミッドを見たりして、そこでは、人種とかは関係なしに盛り上がっていました。
 そういう一瞬があちこちであって、そういう(人種とかに関係なく皆が楽しめるものを見せる)仕事をしたいなと思ったのが美術館の世界に入るきっかけでした。

横尾 小さいころの思いというのは、何かをやるきっかけになりますね。

高橋 ヨーロッパに着くと、山のように美術館、美術品があって、そういうものをリスペクトして見ているという落ち着いた文化がある。
 何か、「永遠に残るかもしれない」という幻想をかき立てるものをやりたいと思いました。
 エジプトはナセル大統領のころで、アスワンハイダムの建設に伴って、ラムセス2世の巨像を移転するなどのすごいプロジェクトをやっていまして、こういう仕事をやりたいなとも思いました。もしかしたらユネスコの仕事をしていたかもしれなかったですね。

横尾 そういうお話を伺って、私の子供時代を振り返ると、いま絵を描いているというのが信じられないくらい普通の子供でしたね。
 ただ、子供のころ、きれいな形をみると真似したくなるというのはありました。風神雷神図の流れが格好いいと思うと、同じような流れを表現した違う絵を描くとか、図鑑に花の絵があって、そのS字のカーブがとても美しいと、それをすぐに真似して書いていたりしました。
 中学に入って、「本物を見に行きなさい」という夏休みの宿題が出て、西洋美術館に行きました。
 クールベの「波」の本物をみたら、すごい迫力で、「こんなにかっこいい絵が描ける人がいるんだ」と思いました。その臨場感、リアル感、力強さは、まだ知らない世界でした。モネの巨大な睡蓮の絵も「どうやって描いたのだろう」と思いました。(高橋さんが学芸員をされた)西洋美術館には、本当にお世話になりました。
 今の自分を育ててくれたのは、そうした美術館の絵だったのかなと思います。

高橋 なんで日本画を選んだのですか?

横尾 私、絵だったらなんでもよかったんです。工作も大好きなので、作るのでもよかったんです。落ち着きのない子で、こちょこちょ絵を描いていました。
 受験のときは美術の方向に行きたいと思っていたんですが、油絵を高校で初めて体験して苦手だったんです。絵の具がべたべたして、石鹸で手を洗っても落ちないのと、思うように描けない「不自由さ加減」があったので、まず、選択の中から油絵が落ちました。
 受験科目を見たら、水彩絵の具でいいというので日本画を選んだのですが、それまで日本画を描いたことは全くなく、「日本画って何だろう」と受験するときに、改めて調べてみて、「教科書にのっていたあれが日本画なんだ」とわかったという感じなんです。大学に入ってから好きなことをやろうという軽いノリでした(笑)。

高橋 あのころって、たぶん、みな洋画が好きだったんですよ。
 おととい、昔からよく知っている(直木賞作家の)篠田節子さんと対談をしたのですが、篠田さんは中学・高校生のころは美術部だったらしいんですよ。あのころだとギュスターヴ・モローがインパクトがあって、油絵はどんどん描きこめるし、面白かったと−−。
 日本画は難しくないですか。にかわを溶いて−−。

横尾 学校に入って、難しいのだなと思いました。

高橋 で、模写ばかりやらされるでしょう。
 
横尾 模写ばかりでもないのですが、1年のとき1枚、2年のとき1枚と描いて、模写が苦手なのに懲りもせず大学院は通称、“模写科”(古典研究科)に入りました。

高橋 それが芸大の日本画の特色かなと思います。

横尾 日本画の絵の具を扱う技術を学ぶのには、模写がいいんです。
 日本画の材料は紙ですから、紙に描いて裏にもう一枚紙を貼って、強度を高める裏打ちの技術などもあります。表具をやったり、金箔、銀箔を貼ったり、基本的な要素を学べるんですね。

高橋 それができるから、面白い絵が描けるかというとそれは別問題なんですけれど、何かステップアップしようとするときには後々役に立つ重要な技術なんですね。
 
横尾 役に立ったんだとは思いますが、自覚はないですね。

高橋 でも、横尾さんの作品を見ていると、すごく基礎がきちっとしているなと思います。テクニックがあります。

横尾 それは模写のせいではないです(笑)。

高橋 日本画の感覚について考えてみたいのですが、日本人って、あらゆる意味でパースペクティヴがすごく乏しい国民性だと思うんです。脳の知覚の方法になにか理由があって、空間を奥行きを持って認識しないのではないかと、自分を含めて思うんです。

横尾 私も対談に先立ってのバイオリンの演奏を聴いて、人を包み込む奥行き感は西洋画のものだなという気がしました。
 触れてきたものが違うのでしょうか。
 包み込むような立体的な存在感、力強さを油絵に感じます。
 子供のころ、西洋画のそういうところに魅力を感じたのだと思います。

高橋 西洋音楽ってバイオリンやピアノなどの個人楽器があって、オーケストレーションの世界があって、さらにパイプオルガンがフーガなどを奏でる重厚な世界がある。
 美術でもそうで、プライベートな世界からパブリックな世界まで、いろいろある。
 西洋のアートはギリシャ、ローマ以降、社会的なコミュニケーションを担ってきたんですよね。
 権威者、為政者、お金持ち、市民共同体…そういうものの権威とかメッセージを具現するためのツールなんです。すべてのものが視覚化され、造形化された。街の真ん中にミケランジェロの裸の像が置かれたりする。日本人から見たら少し変だと思うんですよ。けれども、そういうことが自然に歴史的に行われてきた。そういうあり方が日本における美術とは違うという気がします。

横尾 日本の絵は感情とか心の内面性の表現が多いと思うのですが、西洋のアートは力強い具現化したものという存在感を感じます。

高橋 社会的なコミュニケーションツールという性格が19世紀ごろに限界までいってしまって、それの反動というか、プライベートなところまで戻すために印象派の人たちなどが、自分たち個人の関係性のなかで見る作品に引き戻している。その過程では、日本の美術にすごく影響を受けたりしているんですね。
 そういう意味では印象派が日本と親和性があり、日本人も大好きなのはよくわかります。どこか共通したものがある。 
 印象派の画家の作品を見ていると、意識・無意識にかかわらず、「日本人になろう」としてフラットに描いていますよね。

横尾 日本も下村観山とか菱田春草の時代になると、奥行きを意識して描いているのだけれども、やはりとても日本画的で、「平ら」ですよね。
 パースペクティヴの表現を目指しているのだけれど違うものになっているのは面白いです。



高橋 最近、ちまたでは、日本美術の展覧会が盛況なんですが、これは、自分たちの本来もっている感覚に近いものに回帰しようという自然な社会傾向なのかなと思うんです。

横尾 確かに若冲などは若い人にも支持されていますね。とくに若冲などの傾向の画家は、いまの人の感覚に合うのでしょうね。
 私は若冲を大学で初めて見て、気持ち悪い絵と思ったんです。
 でも何年か前に相国寺で33幅の『若冲動植綵絵』(どうしょくさいえ)を円形に飾った展覧会があって、その絵を見たのですが、涙が出るほど感動してしまいました。「この世界が描きたかったのか」ということがわかりました。大人になって、「素晴らしい絵を描く人だ」「人気が出るわけだな」と感じるようになりました。
 この絵は親と自分の永代供養のために描いたようですが、こんなに人を感動させる作品を「一生に一度でいいから描いてみたい」と思います。

高橋 年齢を重ねて(失礼!)、その境地がわかってきたということなのでしょうか?

横尾 1枚の絵じゃ理解できなかったですね。
気持ち悪いほど、全部の画面を使って同じように描いていて、空間もへったくれもない。妖怪を描いているような感覚の絵というイメージだったんです。
でも、33幅が揃った絵を見て、そんなことからは突き抜けているなと思いました。

高橋 若冲のブームって突然来たようにも見えるけれども何年か前に、ワシントンのナショナルギャラリーでも若冲展を開催したんですよ。そうしたら、驚くほどの人が来た。日本の画家でこんなに人が入るとは想像もしていなくて、ナショナルギャラリーの関係者も驚いていました。
アメリカ人でもそんなに面白いと思ったのだから、時代性があるのでしょうね。

横尾 大学生というともう30年くらい前なのですが、そのころに、辻惟雄(のぶお)先生が、若冲とか曾我蕭白を紹介されていました。その時はなんとも思わなかったのですが、いまはすごい勢いですね。

高橋 横尾さんは日本画家はどなたが好きなんですか。

横尾 円山応挙、菱田春草、下村観山、橋本雅邦らが好きですね。古い人が多いですかね。

高橋 ちょうどいま、春草展が人気ですよね。
 でも、画家はあまりマーケティングとかばかり考えてもしかたないですからね(笑)。

横尾 私たちは絵を描いて、「たった一人がわかってくれればいい」のですが、美術館はそうはいかないですね。

高橋 僕の仕事は「10人がわかってくれればそれでいい」というわけにはいかないので、マーケティングは必要です。収支だけの話ではなくて、どれだけの人、マジョリティが何を欲しているか、マイノリティーの人が何を欲しているのかというのは、ある程度考えていかないと。自分はこれがいいと思ってやっていても1日10人しか見に来ないというのではだめですから。

横尾 ひとことでいうと、高橋先輩はどんな絵が好きですか。
 私は、見て、「しみるなあ〜」と思う絵です。
 感情論ですが。

高橋 僕の場合は、展覧会で絵を見て、「この絵が寝室にあったらいいな」と思うか思わないかですよね、最終的には。
 1対1で好きになれるかというところで、「好きな絵」を選択しています。
 マーケティングベースとは関係ない世界ですが、それがないと、どんなに大向こうをうならせる展覧会でも嫌なんですよね。

横尾 やはりそうですよね。絵を集める人、企画する人が、心から素敵と思っていないと伝わらないですよね。

高橋 それは、展覧会みたいなイベントをやっている者が持つべきささやかな良心なんだと思います。

横尾 私の子供のころは、西洋絵画の何を見ても珍しかったし、素敵に見えたんですが、いまの時代の若い人とか、絵をあまりご覧にならない人向けに企画するのは難しくないですか。

高橋 昔に比べれば、なんでも情報として引っ張れる時代なんですけれども、だからといって子供たちとか若い人たちが本当の意味での情報を得ているのかというと、どうもそうではないと日々実感するところです。
 何でもかんでもスマホから引っ張れるのだけれども実は何も見ていないのと同じかもしれない。
 バーチャルな情報ばかりが先に入ってきている。

横尾 私たちがいいなと思っていた感じ、もっと、ふくよかな感じがあるといいのでしょうね。

高橋 みなディスプレーの中で、平準化されたイメージで見ている。
材質感もないのに、ひたすらディスプレーで絵を見て、見た気になっている。
 自分自身も混雑する展覧会ほとんどいかず、パソコンで見て、いいかなという気になっています。あまりよくないですね。
 この間ヴァロットン展ではスマホのアプリを作ったのですが人気がありました。家にいながらにして展示されているもの見られる。私の付けた解説も音声で流れるというスグレモノです。



横尾 高橋先輩の解説は面白いですね。例えば、『芸術新潮』で特集された2010年の「オルセーの美術館展」のコメント一つひとつが面白かったです。
 その一つが、アングルの『泉』。この時代は、リアルな女の人を描かなかった時代で、神格化されたヌードを描くのが常識的だったのですが、アングルの『泉』の女性は顔が可愛らしくて、教室にいてもおかしくないような顔なんです。
 その顔が可愛くて、『泉』って好きだったんですが、髙橋さんのコメントを読むと、今の時代でいうと、アキバ系の女の子のような感覚で見たのではないか、と書いてありました。いまに当てはめると、そういう解釈なのか、と思いました。
 1つひとつの絵の解説が、いまでいうとこんな感じというのがわかりやすく、印象的でした。

高橋 「グラビアヌード系」ですよね。本当の意味でのリアルな女性のヌードではない。
 だから、表現として、お目こぼしになっていたわけですよね。検閲にもかからず。リアルじゃないから。
 リアルかどうかというのは非常に大きな問題ですが−−。

横尾 リアルという感覚もその時代、時代で違いますよね。

高橋 ある種の時代の「リアリティー」というものがあって、それをつかんだ作家が残っていくんだと思います。

横尾 日本の浮世絵などもリアリティーの問題に関わってくるのでしょうかね。

高橋 浮世絵の作家のなかでもリアルな感覚を100%つかんでいる人といない人いる。そこが作家を分けるのだと思います。
 北斎なんかはすごいですね。

横尾 理屈抜きで、絵の表情の強さ、絵の動きの強さを感じます。

高橋 北斎は肉筆画が結構残っており、本当にすごい。臨場感があるというか−−―。

横尾 奥行きのない線だけの臨場感は、なんとも言えない迫力ですよね。

高橋 西洋の作家でも、だれでもがパースペクティヴ、空間感覚があるか、というと、作家によって違うなというのが最近、わかってきました。
 ボナールとかドニとかヴュイヤール、ヴァロットンみたいな19世紀末のナビ派の作家だと、この人たちは、まるで日本人みたいだと思うことも多くて、デッサンなどを見るとかなり平面的です。
 洋の東西を問わず視覚的な認識度はみんな違うんだなというのが最近、見えてきました。

横尾 昔、気がつかなかったけれど、いま気がつくことって、たくさんありますね。
 先日、東京国立博物館で、上村松園の「焔(ほのお)」を見ました。源氏物語に登場する六条御息所が生霊になって葵の上を呪い殺してしまうというほど強い嫉妬心を持つ姿を描いたものです。昔は、綺麗な絵の中に一枚だけ嫉妬に燃えた女性を描いた絵があるな、上村松園も変わった絵を描くんだな、といった理解だったのですが、先日見たら、すごく感動したんです。
 若いころは何とも思わなかったのですが、この絵を見て、源氏に対する恨みつらみというより、ものすごくか弱い、人間のどうにもならない、行き所のない悲しみを感じました。
 絵にはかなさを感じたんです。松園って偉大な作家だったのだなというのを改めて感じました。
 若冲を久しぶりに見たときのように、「ああ、こんないい絵が描けたらいいな」と思いました。「女の人がみた女」もいいかなあと感じました。

高橋 たぶん、男の作家だと、最終的に女を描くのは難しいと思うんですよね。でも、男でもたまにできる人がいて、『8人の女たち』『スイミング・プール』などをつくった、フランソワ・オゾンなんていうフランス人の映画監督は女性の心理が驚くほどよくわかっていました。『ふたりの五つの分かれ道』なんて、すごいですよ。とても若いのに不思議な才能、共感力です。



 他方で、僕なんかは、最近、年を取ってきたのか、後半生の仕事というか、晩年がどうなるのかなというのがとても気になります。
 いま、三菱一号館美術館で『ミレー展』をやっていますが、ミレーが一番いいなと思うのは、ずっと制作を続けてきて、晩年になるにしたがって、絵が軽く、明るくなってきているんですね。自由になって、開放感がある。死ぬ前の年に描いたものなどはすごく開放感がある。そういうのには、あこがれますね。
 肉体的には衰えていくんだけれども、精神が自由になっていくのはすごくいいなと思います。

横尾 そう伺うと、最近、見ていなかった西洋絵画をもう一度、見てみようかと思いますね。

高橋 ミレーというと、一見、古い教養主義の感じがするのだけれど、今回みたいな機会に改めてよく見てみると、とてもいい作家だなと思います。

横尾 改めて見るって大事ですね。

高橋 それは僕だけの感想ではなくて、この展覧会を見たいろんな人にそう言われます。見る時期も大事ですね。同じものを見ても感じ方が違う。

横尾 西洋絵画は格好いいと思っていますけれど、最近、見なくなっていました。
 ぐっと入ってくるのは日本画に多かったかもしれません。

高橋 ヨーロッパで色々な展覧会を見ると、自分たちの知っているものはまだまだ一部という感じがいつもあります。毎回、結構斬新なものを見せられるので。
 自分が持つ限られた情報で、わかった気になるのは危険です。

横尾 日本は制作される絵画の数が少ないのでしょうか?

高橋 絵画の表現の幅が比較的狭い、のかもしれませんね。深い感じはありますが――。

横尾 日本画の歴史は、桃山時代の障壁画くらいからですから。

高橋 ラスコーとかアルタミラの壁画を見ると、圧倒されますね。
作家ならば、一度はああいうものを見た方が良いと、老婆心ながら、言いたいですね。
 人間の歴史で、テクノロジーはものすごく進歩しているけれど、感情とか感受性の部分は、ほとんど変わってないじゃないですか。むしろ、後退している気もする。
 多分、アートの世界は石器時代から変わっていないんですよ。
 表現の形態や技術的なものが変化したけで、すでに大昔に表現としてなされてしまった部分はすごくある。

横尾 やはり人間が思いを込めてつくったものに感動するんですよね。

高橋 テクノロジーで進歩していると思っている自分たちがいるのだけれど、原点に引き戻されるじゃないですか。
 何か忘れたことを思い出させる。わからないこと予見させる。そうしたものがアートの力なんでしょうね。
 そう考えると絵を描く人ってクレージーじゃないとできないと思います。
 横尾さんは、おみかけしたところ、大丈夫ですよ(笑)。
 日常生活は普通でいいんだけれど、どこかでクレージーな部分がないと、初源的なものは呼び戻せない。

横尾 絵を描いていると、3日くらい寝ないということがいまだにありますね。4日目には寝る努力をするんですが、描いていると寝られなくなるんです。
 それはクレージーといえばクレージーですね。だんだん年とともにひどくなっているような気がします。
 これからですよ、見ててください(笑)。
 先輩も、長生きしてくれないとだめですよ(笑)。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇ 
     
 葉月ホールハウスでは、7月に池田真弓さん(高校32回卒)の個展を開催。11月24日から12月7日までは、水墨画の海野次郎(高校23回卒)さんの個展も開く。



 富士高卒業生たちの活躍と出会いの場を提供してくれる葉月ホールハウスを運営するのも高校27回卒の岩河悦子さんだ。今回の対談をきっかけに、富士高卒業生たちのクリエイティブな交流の輪が葉月ホールハウスを拠点にさらに広がっていくのではないか、という気がした。
(高校27回卒・相川浩之)
 富士高校の卒業生に会うと、ああ、この人は、やはり、富士高卒なのだなあと思うことが多々ある。様々な道を歩むOB、OGに会い、その足跡を追うとともに、富士高生の気質や文化を探っていきたい。
◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇  
 第四回は、日本画家・池田真弓さん(高校32回卒)。
 池田真弓さんの個展が杉並区善福寺のギャラリーで開かれる、という案内ハガキを受け取ったのは、7月に入って間もなくのことであった。会場となった「葉月ホールハウス」の主宰者である、岩河悦子さん(高校27回卒)からのハガキだった。「行こう!」とすぐに決めた。富士高校の卒業生が集まる場になりそうだという期待もあったが、何よりも、案内ハガキに印刷された絵のもつ不思議な雰囲気に惹かれたからである。水鳥が二羽いる、光あふれる水の表面を描いたものだ。池田さんはなぜこれを描きたいと思ったのだろう。


(案内ハガキの絵)

 緑豊かな善福寺公園に面して建つ「葉月ホールハウス」に、私はこれまでも何度かお邪魔している。外光を取り入れた、明るい会場内には、中央にグランドピアノがあり、テーブルと椅子が並んでいて、心地よく寛げる雰囲気である。訪ねたのは、土曜日の午後。富士高校管弦楽部で池田さんと一緒にビオラを弾いていたが方々が彼女を囲み、穏やかな空気が流れていた。


(葉月ホール入り口)

 富士高管弦楽部OB/OGが集う「富士オケの仲間たちの演奏会」で久しぶりに出会ったことをきっかけに、今ではビオラを弾いていた人たちだけが集まる「大ビオラ会」という会もできているという。池田さんは、高校に入ってからビオラを始めた。先輩たちの指導は厳しく、朝練・昼練もあって「運動部なみの厳しさだった」と、みなさんが口をそろえた。しかし、「合わせることの楽しさ」を味わった池田さんは、クラブ活動にどんどんのめりこんでいった。


(池田さんとオケの仲間たち)

 「授業では、美術を選択していました」という、美術も大好きだった池田さん。音楽も美術もどちらもやりたかった。高校3年生になって進路を決める際には、「ここで決めなくては」「後悔したくない」という気持ちで、ぎりぎりまで悩んだ。
 小学生の時に教科書で見た東山魁夷の絵の美しさを思い出した。学校では習ったことのない日本画。やってみようかなという気持ちになり、美術館へ行くと、「まだまだ知らないことがたくさんある」と思った。美大の日本画を受験することに決めた。
 家族を説得したうえで、夏休みからは本格的に美術の予備校に通い始める。2学期になってからも、5時から始まる予備校に毎日通った。そこで教えてくれる現役の美大生たちからの影響も大きかった。日本画の画材・岩絵具、墨、筆、紙、箔などの美しさにも惹かれていった。




(葉月ホールハウス)

 大学では、加山又造先生のほか、堀文子先生の授業も受けた。先生方は色や形、技法を教えこむのではなく、「何を表現したかったのか?」という質問を池田さんに投げかけた。自由に描きたいものを描かせてくれた。個性や自主性を尊重する教育が池田さんを目覚めさせた。
 動いているもの、変わるものに関心があった。大学2年のとき、初めて「水」というテーマに出合い、卒業生制作で描いた水をテーマにした作品は、加山又造先生から「面白いね」という言葉をもらい自信がついた。大学院に進んだ1年目、公募展「日展」に初出品した作品が初入選。つづいて、上野の森美術館のコンクールでも特別優秀賞を受けた。「日本画をやっていこう」「水を描くことをライフワークとしよう」との決心が固まったのもこのころだった。
 



(水をテーマにした作品)

 8月に入ってすぐ、池田さんの作品が展示された葉月ホールハウスの空間でギャラリーコンサートが開かれた。ピアノ演奏者の坂井みゆきさんは、池田さんと同じ32期。管弦楽部で一緒にビオラを弾いていて、大学では音楽の道を選んだ。二人で相談して選んだ曲は、水をイメージしながら作られた  「ドビュッシーやラベルの曲。演奏の合間に、池田さんの絵と音楽に対する思いが語られた。「曲を聴きながらいつも絵画の制作を行います。ドビュッシーのタイトルの選び方は聴く人のイメージをふくらませます。そこから示唆を受けて、私も絵を見る人のインスピレーションをかき立てるようなタイトルをつけたいと思うようになりました」。
 「水幻」「水に漂う」「映」「揺らぐ」「水紋」「宙水」など、確かに彼女の作品のタイトルを見ると、こちらの想像力の働きを助け、より深く絵の中の世界に入っていけそうな気がしてくる。柔らかいピアノの音色と池田さんの誠実な語りに導かれ、「作品作りの原点のところに触れてもらいたい」という思いがよく伝わってきたコンサートだった。
 

(息の合った二人でギャラリーコンサート)

 「上野の森美術館絵画大賞特別優秀賞」を受賞し、上野の森美術館に買い上げられた、池田さんの作品が開催中の「現代女流画家の視点-上野の森美術館コレクションー」展(5/11~8/18)で見られると聞いて、千葉県富津市・金谷美術館まで出かけた。40号の画面に広がる水の表面とそこに映り込んだ世界。音楽のように流れるものの中に、しなやかに身を任せて漂うことの心地よさを知っている彼女だけが描ける絵。20代初めのころの作品ではあるが、彼女の原点がしっかりとそこにある、と思った。



(千葉県富津市・金谷美術館での「現代女流画家の視点-上野の森美術館コレクションー」展)

 現在、池田さんは、都立高校2校と中高一貫制の私立校の3つの学校で、中学生や高校生を教える美術の先生でもある。教育実習は、富士高で恩師佐藤美智子先生のもとで受けた。佐藤先生の指導方法は、1~2ヵ月前にカリキュラムを提出させ、美術の授業の枠はすべて、一から池田さんに任せるというものだった。
 その後、佐藤先生が、富士高校のあとに着任した都立高校を退職するときに、池田さんは佐藤先生の後任として仕事を引き継ぐ。その時も佐藤先生と2ヵ月間、同じ職場で働き、その経験は今も土台となっているという。「教師として立ち止まることなく、いろいろな引き出しを持ってやってこられたのは、佐藤先生の厳しい指導があったからこそだと思っている」。
 日本画というと、すぐに掛け軸や襖絵を思い浮かべる子供たちに、「日本画のよさを伝えられたら」という願いがある。教師としての仕事と画家として「描きたいものを描いていく」という仕事。どちらも大切にしている姿勢が感じられた。
 いつも穏やかな表情の池田さん。そのしなやかさに包まれた芯にある強さで、これからも「大切にしたいもの」をしっかりと胸に抱いて、歩み続けていただきたい。
                       (高校27回卒・落合惠子)



池田真弓(いけだ・まゆみ)さん略歴
1961年 東京都杉並区出身
1986年 多摩美術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業(加山又造・米谷清和教室)
      第18回日展 初入選 以降出品
1987年 第5回上野の森美術館絵画大賞 特別優秀賞受賞
      第22回日春展 初入選 以降出品
1988年 多摩美術大学大学院美術研究科
1994年 第26回日展 特選受賞
1999年 第9回タカシマヤ美術賞受賞
2014年現在 日展会友、日本美術家協会会員
個展・グループ展多数
■お悔やみ

 澤地久枝さんの著書を富士高校に寄贈された三上美都さん(本科15回卒)が9月6日、お亡くなりになりました。写真のような「お茶目な」死亡通知とご家族名義の挨拶文まで、生前、ご自身で用意されていました。
 8月19日に筆者(相川)がホームページへの掲載記事を確認していただくため、ご自宅で三上さんにお目にかかり、同日、下記の記事をアップしてから18日後に亡くなられたわけです。ご冥福をお祈りいたします。
 ご葬儀は、遺言により、家族葬にされたとのことです。
 半年前に体調不良で検査。肺がんで「余命いくばくもない」と告げられました。ただ、「病についてはどなたにもお伝えしない。葬儀は身内だけの家族葬にしてほしい」というお気持ちをご家族に伝えられていたそうです。


(図書室の寄贈本)
   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 府立第五高女(本科)15回卒の三上美都(みつ)さん(93)が6月初旬、ノンフィクション作家、澤地久枝さんの著書46冊を、母校の都立富士高校に寄贈された。三上さんは、ミッドウェー海戦で戦死した士官の妻として、澤地さんの取材を受け、ノンフィクション作品『滄海(うみ)よ眠れ〜ミッドウェー海戦の生と死』で、たった1ヵ月の蜜月の模様が取り上げられた。それが縁で、澤地さんとの親交が始まり、澤地さんから新刊本が出るたびに寄贈を受けていた。その貴重な宝物を、「母校のみなさんに読んでいただきたい」と富士高校に託した。本科15回卒の同期会のまとめ役であり、「若竹会理事」も務められた三上さんに、澤地さんとの出会いや同期会活動について、お話をうかがった。


(三上美都さん)

――まず、澤地久枝さんとの出会いについてうかがいます。
 三上「澤地久枝さんがミッドウェー海戦の戦死者を取材し、サンデー毎日に連載を始めました。私の夫がミッドウェーで戦死したので、澤地さんからお問い合わせがありました。でも私は戦後、戦死した人のお兄さんと再婚したので、遠慮して、最初はこの話を握りつぶしていました。でも、1年後にまた、ミッドウェー戦死者のことを知りたいと、連絡があったんです。遺族の代表は戦死した前の夫の兄(今の夫)だったので、二度も私が握りつぶすわけにいかないと『こういう依頼が来ました』と手紙を見せたんです。そうしたらじっと考えた後、『良孝(弟)の思い出を残してくださるというのなら、君が一番知っているのだから、君がお話してあげたらどう?』と言うので、取材の事務局の方に電話をしました。
 『この方には奥さんはいなかったのですか?』と聞かれたので『私が妻でした』と話しました。そうしたら、『一番知りたいのは奥さんのことなんです』と言われ、『よろしければ、あなたが知っている良孝さんのこと、ご兄弟のこと、両親のこと、全部書いてくださいませんか』と言われたのです。
 それで、文章を書いたのですが、投函する決心がなかなかつきませんでした。ハンドバッグの中に入れて10日ぐらい持ち歩いていました。どうしても決心がつかないので、最後は、前の夫のお墓参りに行きました。
 お墓の前に立った時に、私の心のなかに浮かんだことで決めようと思いました。そうしたら、お墓から二本、手が出てきて『俺の女房はおまえさんだよ』と言われた気がしたんです。それで投函しました。
 澤地さんは、すぐにお返事をくださいました。『しかるべきときに一度お会いしたい』とおっしゃいました。お目にかかったのはそれからずいぶんたってからになりましたが。



 「滄海(うみ)よ眠れ〜ミッドウェー海戦の生と死」の単行本第五巻第十四章「まぼろしの蜜月」の一部を引用する。

  結婚の期間が1ヵ月という戦死者は日本側に10人、アメリカ側に1人いた。
 昭和17年4月22日、東京日比谷の法曹会館で、海軍大尉三上良孝の結婚式がとりおこなわれていた。新郎は大正4年12月12日生れの26歳、新婦美都子(みつこ)は大正9年10月24日生れで21歳だった。二人がはじめて会った日からまだひと月もたっていない。 

 三上良孝が妻の美都子に最後にのこした言葉がある。
 「もし僕が戦死したらね」
 と言いかけ、「そんな話はいや」と妻にさえぎられながら、
 「真面目な話なんだ。いいかい、もしぼくが死んでも、君はけっして未亡人なんかで一生通すんじゃないよ。前途有望な青年をみつけて、かならずまた結婚してくれたまえ」
 と言った。

 良孝は霞ヶ浦で7ヵ月、宇佐海軍航空隊と大村海軍航空隊で5ヵ月の訓練を経て、昭和15年11月、空母「加賀」乗組みとなる。いよいよ艦攻パイロットとしての人生がはじまった。

 美都子の父堀田二郎は海兵36期の出身である。大正9年の尼港(ニコライエフスク)事件の救援におもむき、死屍累々の様相を目撃して軍人であることに嫌気がさし、退役して語学教師として長い人生を送った人である。
 美都子はとしの離れた弟が1人いるだけで、1人娘として育った。府立第五高女を出て、YWCAの家政科へ1年通ったが、なにか仕事をしたいという積極的な気持ちがあった。家にいて夫となる男性が人生に登場してくるのを待つような生活など、御免こうむりたいと思っていた。
 ソプラノの声を生かすべく、音楽学校へ進学したいと真剣に考えたこともあるが、……父のつよい反対で断念している。やりたいことはなにもやらせてもらえない良家の娘は、女学校の同級生とはからって東京市の事務手伝いに通っていた。
 
 海軍関係者の知人の伝手で、堀田美都子の見合用の写真も三上家の「候補者」の1枚に入っていた。70日ぶりに帰ったわが家で見せられて、三上良孝が選ぶことになる写真である。

 「加賀」の佐世保帰投3月22日、柱島出港は5月22日。この2ヵ月が三上夫婦にとっての「与えられた時間」だった。

 「ぼくたち、もっと早く出会っていればよかったね」
 と三上は何度も妻に言ったという。

 3月の20何日か、美都子は東京市の仕事から帰ると、両親から「早く着がえなさい」と言われる。せかされて知人宅へゆき、そこではじめて三上良孝と会う。これが見合だった。見合らしいと気づいたとき、初対面の二人は屈託なく笑った。
 戦場から帰ったばかりの長身の青年は濃い眉、切れ長の大きな眼と、その笑い声が印象的であった。
 「この方が私の一生を決める人かな?」 
 と美都子は感じた。

 「おばあさん、俺たち相惚れだよ」と三上はあとで同居している祖母に言う。しかしはじめはこの縁談をことわろうとした。「軍務をひかえているから結婚のことは白紙にしたい」と言う。「ことわって」と息子に言われ、母の文は「ことわるなら、自分でことわるように」言った。
 堀田家へことわりにいった三上は、美都子の父と話すうちに結婚を申し込む。建前よりも正直な若い感性の方がずっとつよかった。

 悲しみの傷跡をはぐ残酷な質問にたじろいだあと、戦死者の追悼のためと思いを定めて、三上美都子は長い文章を書いてくれた。長時間の話しあいもした。
 

(三上良孝・美都子の結婚記念写真)

 「私、ツノなんてありませんから」
 と、振り袖に文金高島田姿の花嫁は言い、角隠しをつけることを拒んだ。三上大尉は長剣も白手袋も、艦の自室においてある。館山基地から来たままの軍服であり、帽子は花嫁にあわせ、手にもった。長剣と手袋は借りものであった。

 「敗戦は、私を打ちのめしました。
 あの人の死は、流した血は、なんだったのですか?
 海の見える丘に立って、遥かミッドウェ―の方角を望みつつ、そこに根を生やし、海に向かって手をさしのべている樹になってしまいたい……そう思ったものです。
 当時の若者が直面したであろうすべての価値観の否定、虚無感は、私にとっても例外ではありませんでした」 


(葬儀の日の三上美都子)

 三上美都子は私の問いかけに答えて、長い間封印してきた思い出を一つずつ胸の底からよびおこして、それを文章に書く努力をしてくれた。最初の原稿を書きおえた日付は、1982年の8月15日になっている。



 三上「結婚して(夫が戦場に向かったのが)1ヵ月という妻がアメリカにもいて、第十四章「まぼろしの蜜月」では、日米二人の妻の話を並行して取り上げています。結婚してから1ヵ月で、(前の)夫は戦地に出向き、それから、2週間で戦死してしまいました。厳しかったですね。
 本では、私の名前は、美都子になっています。本当は『子』はないのですが、『子』をつけて使っていたんです。
 彼が別れ際に言った言葉がのっけに出ているんです。
 私の結婚の写真も載っています。「滄海(うみ)よ眠れ〜ミッドウェー海戦の生と死」の単行本全6巻は子供たちが家に残しておいて、というので今回の寄贈本のなかには入っていませんが、私と戦死した夫のストーリーが載っている文庫版(文春文庫)第三巻は寄贈いたしましたので、ぜひ、読んでください」

 三上「取材は私の家では話しにくいと考え、澤地さんのお宅にうかがいました。澤地さんは私より10歳年下ですが、お会いすると、意気投合してしまいまいた。取材のテーマとは違う話もしてしまい、「どこまで取材しましたっけ」などと澤地さんが言って取材を再開していました(笑)。澤地さんは、その後、私の家にもお見えになって、再婚した主人(良臣氏)にも会いました。本には彼のことも載っています。当時、彼はドイツにいたんです。三井物産からドイツに派遣されて、ドイツで石炭液化の研究をさせられていました。ドイツの工場を視察して、日本に報告を送っていましたが、工場は民間人は入れないということでドイツで日本大使館から陸軍の技術少佐の肩書きをもらっていました。
 彼がドイツに行って留守のときに私は(前の戦死した夫と)結婚したんです。ですから弟の結婚通知と死亡通知がほとんど同時に来たそうです。それでドイツから手紙をくれたりしたのですが、それもこの本に載っているます。澤地さんが「それを載せてもいいですか」というので義兄(主人)にも会ってもらいました。
 義兄は、陸軍の技術少佐という肩書きだったのでアメリカに抑留されていて、その間に兄嫁が29歳の若さで、疎開先で亡くなったんです。義兄が国際赤十字の船で帰ってくることが決まって兄嫁は喜んでいたのですが…。義兄とは、彼が帰国後、初めて会いました。その後、彼と再婚して、残された二人の子供が、私の子供になったのです」

三上「澤地さんからは、ストーリーを書き始めた後も、電話で、『このとき、あなたどういうふうに考えていた』と確認の取材を受けました。サンデー毎日の連載(三上さんのストーリーが掲載されたのは昭和59年5月6・13日号〜8月5日号)が単行本になった時は、澤地さん自らが持ってきてくださいました。昭和60年1月22日のことです。
 澤地さんはこの本で、ミッドウェー海戦の戦死者の名前を全部調べて、ご本人や家族のことを取材していますから、大変な仕事だったと思います。日本の軍隊は、尊い命を捧げた戦死者について曖昧な情報しか公開しておらず、何事だ、というのが澤地さんの主張でしたので、1人ひとりを取材したのですね」

 三上「澤地さんの取材を受けるに当たっては、当時、出ていた『石川節子 愛の永遠を信じたく候』や『暗い暦 二・二六事件以後と武藤章』、『密約—外務省機密漏洩事件』など5、6冊の著書を読みました。そうしたら、彼女のものを書く姿勢が見えてきて、これなら取材を受けてもいいかと思いました」


(澤地さんに送った原稿の控えや覚え書きを見る三上さん)

――控えの原稿も自筆なのですね。いまだったらコピーをとりますが、すべて書き写しているんですね。
 三上「澤地さんには夫のこと、自分のこと、兄弟、両親のことを書いてくださいと言われて、書きました。今見ると、ずいぶん長くいろいろなことを書いていますね。
 これが最初に私が書いた文章を読んで澤地さんがくださった手紙です。澤地さんの家に最初に行った日付も書いてありました。昭和58年7月24日です。私もマメですね(笑)」

 三上「澤地さんとはこの取材がご縁で、その後、ずっとお付き合いをしています。澤地さんとは旅行も十数回行きました。二人っきりの旅もずいぶんあります。ミッドウェーにも行きました。著書が出れば、必ず、贈呈してくださいました。自筆のサインの上に『三上様』と書いてあるのが半分くらい。みなきれいな本ですよ」


(寄贈本。三上さんのドラマが取り上げられている文庫版の「滄海(うみ)よ眠れ〜ミッドウェー海戦の生と死」第三巻もある)

――三上さんは15回卒の同期会幹事としてもご活躍されていました。同窓会の様子や幹事ぶりなどを教えてください
 三上「私たちはすべてのクラスが集まる会も同期会と言わず『級会(クラス会)』と言っていました。卒業したのは196人。90歳のときは70人になっていました。昭和13年に卒業してから数年はクラス会を開きましたが、戦争で中断しました。戦後、また開いたのは昭和23年か24年ごろだと思います。多くの人が赤ん坊を抱いている写真があります。それからは毎年、開いています。
 幹事は持ち回りでやっていました。でもこの10年くらいは私がずっと幹事をしてきました。70代後半になって『クラス会をやめよう』なんて言う人が出てきたんですよ。連絡が面倒くさいって。じゃ、やってあげるわよと言って、多菊志津子さんと二人で始めたんです」

 三上「はじめは、いろいろな場所でクラス会をしていましたが、平成10年(1998年)の喜寿を祝う会を帝国ホテルでやってから、クラス会は毎年4月1日に帝国ホテルで開くことになっていました。4月1日ならば、みな同じ年齢で平等ですから。
 平成22年、90歳になって、昔懐かしい新宿で開いたのがクラス会の最後です。本人が17人、付き添いが3人で20人が参加しました。それからはクラス会と銘打たず、集まれる人だけが集まっています。なかには案内をもらうと本人が行きたがるから案内を送らないでほしいという子供さんもいるんですよ」

三上「二泊三日とか一泊二日とかの旅をするクラス会もずいぶん開きました。北海道クラス会、仙台クラス会…。九州、関西でもやりました。仙台は5人くらい同期生が住んでいました。北海道は1人だけだったんですが、ご主人が張り切って手伝ってくださって、函館でやりました。仙台クラス会は、合唱団をやめたときだから…、60歳のときですね」

――女性も60歳になると、いろいろな活動から引退するんですか。
三上「私の場合は、61歳の時にオーディションを受けて、遠藤周作が作った素人劇団の樹座に入りました。還暦の記念にステージに出ようと友達と二人で。まだまだ、いろいろなことをやっていました(笑)。
 でも、還暦以降は子育てから解放される人が多く、30人そこそこの参加だったクラス会の参加者が増え、40〜50人、集まるようになりました。
 家庭科の(故)阿部(菱山)春子先生が、私たちの同期で、彼女が若竹会の理事をやめるときに、私が代わりに理事になりました。仲がよくて、九州行っちゃうから、みっちゃん、やって、と頼まれ、引き受けました」

—―NHKの連続テレビ小説「花子とアン」で女学校が描かれていましたが、第五高女も「ごきげんよう」と挨拶するような感じだったのですか。
「白石校長が学習院から移って来られたこともあって、『ごきげんよう』でしたね。1年生で入ったときは、みな戸惑いましたが、だんだん慣れてきました」

――着物を着ていたんですか。
「セーラー服を着ていましたよ(笑)。
 大正9年生れは庚申(かのえさる)なので、にぎやかね、と言われました。
 卒業してからはピアニストになる人や小説家になる人もいました。医者になる人や専門職に就く人もいました。
 第五高女は積極的な人が多かったと思います。
 第一から第八までのナンバースクールと言われたところには、学力が高い人が入っていたと思いますが、文化が共通だったのかもしれません。卒業してから肌合いが会う人は聞いてみるとナンバースクールの卒業だったりしたことが多かったです。
 私たちのころは安藤先生という方の音楽の授業が素晴しいということで、芸大の師範科の学生が見学に来ていました。
 私は歌が得意だったので、堀田さん、芸大行かないって言われたのですが、父が許してくれませんでした。ですから一番下の子が小学校3年生になってから東京合唱団に入り、30年歌いました。
 振り返ると第五は楽しかったと皆、言っています。入るまでは堅い印象だったのですが、お月見会があったり、義士会(講談師が来て、赤穂四十七士の話を聞いてお菓子をいただく会)や映画会があったりしました。映画会ではゲイリー・クーパーの『ベンガルの槍騎兵』を鑑賞したりしました。
 購買部には新宿中村屋が入っていて、おいしいパンが食べられました。
 朝、お金を入れて名前を書いておくと昼にパンが届くんです。
 遠足というとお菓子の詰め合わせが中村屋から届きました。
 ひと月に一度、全校生徒(5学年)が参加する徒歩遠足というのがあり、そのときはお菓子はだめでした。貸し切り列車でいろいろな所に行って、一日歩きます。みな、傘を持って歩くんです。傘は日傘にもなるし、杖にもなるので、持っていかされたんですね」。

――三上さんは昨年で理事は「お役御免」とおっしゃられて、若竹会の活動から、離れられましたが、何か、メッセージはありますか。
 「昔は理事会が中心になって卒業生を集めて劇場を借り切った観劇会なども開いていました。各回卒の代表として理事が頑張っていました。いまは理事会への出席者も少なくなって、理事会がイベントをリードするような形にならないのは残念です」

                        (高校27回卒・相川浩之)
「全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本 2014年本屋大賞」(2014年本屋大賞)に、都立富士高校卒の脚本家・小説家、和田竜さんが著した『村上海賊の娘』が選ばれた。和田さんは、『村上海賊の娘』で、大衆小説分野の有望な若手作家に与えられる「第35回吉川英治文学新人賞」も受賞した。文学賞のダブル受賞は快挙。和田さんにお話をうかがった。
 (聞き手/高校27回卒・相川浩之、落合惠子)





――和田さんは大阪でお生まれになって、生後3ヵ月から中学2年生まで広島市で暮らされていました。土砂災害のあった広島市安佐南区にいらしたということですが、いま、広島に、ご親戚はいらっしゃらないのですか。

和田 僕は父親の転勤で広島に行っていたので、親戚はいないのですが、友人の安否は気になります。ニュースで安佐南区の八木、緑井という地名をよく聞くと思いますが、この両地区と僕の住んでいた川内の小学校から集まってくるのが城南中学校という僕が通った中学校です。ですから中学校の同級生があのあたりに住んでいます。具体的な情報が少なくて、なかなか同級生の安否はわからないのですが、今のところは同級生が被災したという情報はありません。

――大阪でお生まれになったと言っても、生後3ヵ月ですと、記憶はないのでしょうね。

和田 まったく覚えていません。20歳くらいのときに、ここに住んでいたんだぞって、親に連れて行かれましたが、覚えていませんでした。寝屋川市で生まれました。

――ご両親は関西出身ですか。

和田 父が岩手で母が東京です。転勤の途中で生まれたという感じですね。父は当時、工業用ミシンのJUKIの子会社にいました。

――ご兄弟は?

和田 4つ上の兄がいます。


(因島と因島大橋)

――和田さんは広島育ちということで瀬戸内海の島々には親しみがあったのではないですか。――和田さんは広島育ちということで瀬戸内海の島々には親しみがあったのではないですか。

和田 住んでいた安佐南区は太田川を遡ったところにありまして、あまり海にまでイメージが及びませんでした。呉や尾道に住んでいたら、瀬戸内海を意識したのでしょうが、瀬戸内海は“旅行に行くところ”というイメージでした。
 父は、よく僕ら兄弟を名所旧跡に連れて行ってくれ、因島にも行きました。ただ、全然覚えていないんです(笑)。小説を書くために5年前に瀬戸内に行って、こんなにいい景色なんだと再認識しました。
 因島の記憶はないのですが、瀬戸内海に村上水軍という海賊がいたという知識はあって、「かっこいいな」とは、子供のころから、ずっと思っていました。

――歴史を好きになったのはいつ頃からですか。

和田 富士高校の日本史の先生には申し訳ないのですが、大学に入ってからです。高校で教わる教科書の歴史は、人間の感情が排されて書かれているのですが、人間の感情が伴わないと歴史ってよく分からないのです。事実だけの羅列では分からない。

――大学は、どんな科目で受験されたのですか。

和田 英数国で私立を受験しました。

――大学に入って歴史に興味をもつきっかけになったのは何だったんですか。

和田 大学の夏休みに『竜馬がゆく』を読んだのがきっかけです。僕の“竜”という名前は竜馬から取ったんだと小さい頃から言われていたので、読んでみるかと思って読んだのが始まりです。これが面白くて土佐(高知)に行ったり、京都に行ったりしました。史跡巡りも始めて、どんどん歴史小説を読んでいきました。読んではどこかへ行き、という感じでした。

――最初は司馬遼太郎を読むことが多かったのですか。

和田 そうですね。最初は幕末を描いた司馬遼太郎の作品で、それから黒沢映画に凝りました。原作の山本周五郎を読んで、司馬遼太郎を海音寺潮五郎がほめていたという逸話を知って、海音寺潮五郎を読みました。それもまた、面白かった。この3人が僕の敬愛する作家です。



――『村上海賊の娘』を読んだ時に、ストーリーから一時離れて、その土地や人物についても面白く語ってくれるところは、司馬遼太郎のようだと思いました。和田さんらしいと思ったのは、例えば、主人公の景姫が敵に斬りつける場面の描写です。映像のように目に浮かぶんですね。
 (最強の敵となる)眞鍋七五三兵衛なんか、ターミネーターのような感じがしました。
 初め、これは、和田さんが脚本家だからかなと思ったのですが、『のぼうの城』のオリジナル脚本完全版を読んだら、脚本って、ほとんど台詞しか書いていないんですね。あの表現は脚本家だから書けるわけではないということが分かり、和田さんのオリジナリティーはどこから来ているのだろうと、思いました。

和田 実は脚本を書く時も、イメージはあるんですよ。脚本には演出部分のことは書かないという作法があります。演出は、映画監督が考えることだからです。例えば殺陣(たて)のシーンでも殺陣師と、どんなシーンにするかを練っていくのはあくまで監督なんです。脚本家はそこまで踏み込んではいけないという礼儀があるんです。だから、書いていないだけなんです。でも脚本を書く以上はこういうシーンにしてほしいというのは僕の頭の中にはあります。小説のときにはそれも、全開にして書いているということですね。

――まさに映画を作るような感覚で小説を書かれているんですね。

和田 文字で演出しています。こういうタイミングで、こういうような絵が入って、ぱっとカットが切り替わって、こういう動きをしましたというのを文章にするとどんな感じかなと考えるんです。スピード感も読者には理解してもらいたいので、アクションシーンなどは短いセンテンスで、畳み掛けるような感じで書きます。



――小説を書く時も意識されているのは映画の脚本ですか。

和田 僕は映画が好きなので映画の脚本を意識しますね。2時間くらいのなかで収まる物語というのが一つの形としてあります。村上海賊はそのまま映画にしたら5時間くらいになってしまうと思いますが(笑)。

――朝の、連続テレビ小説のようなドラマの脚本を書いてくれと言われたら書きますか。

和田 僕はそういう形で自分を鍛えていないんです。脚本のコンクールももっぱら映画用に送っていました。テレビ用のコンクールは1時間くらいのドラマを想定して書きなさいということで枚数制限もありました。映画は2時間くらいの枚数で書きなさいという制限があるんです。もっぱら僕は2時間くらいという制限で脚本を書いてきましたから、ずっと長いこと書いていくって、どうすればいいのだろうと思います。いま、そんな依頼が来たら、途方に暮れると思います。
 でも、僕に脚本を依頼する人なんていなくなってしまいました。まるっきり小説家だと思われています。

――『村上海賊の娘』を映画化するときは、当然、脚本も書かれますよね。

和田 ええ。実は小説を書くに前に、一度シナリオに起こしているので、それをブラッシュアップして使うことになるでしょうね。

――実は『のぼうの城』は先に脚本があって、それを映画化するために知名度を高め、資金調達をうまくする必要があって、小説を書かれたという裏話を『のぼうの城』オリジナル脚本完全版で読みました。でも、演出部分を全開した小説を書いた後では、監督はやりにくくなるのではないでしょうか。

和田 そうですね。脚本から小説にするときにディテールをかなり書いて、それが話題になって売れたので、監督にはちょっと困ったなというのはあったかもしれませんね。

――『村上海賊の娘』を映画化すれば面白くなるとは思いますが、監督がそのなかでオリジナリティーを発揮するのは、脚本しかない場合と比べて難しいかもしれませんね。でもキャスティングでずいぶん映画は変わりますから、それほど苦労しないのでしょうか。

和田 『村上海賊の娘』は映画化の話もあり、主演女優も考えなくてはいけないのですが、僕は当て役でシナリオを書くことはないので、だれがいいとか言うのは基本的にないんですよ。でもなんか考えは持っていた方がいいのかなと思って考えたりはしているんですけれど、難しいですね。ちなみに、小説では景は醜いと言われていますが、現代から見れば美人です。

――『村上海賊の娘』はアクションシーンが多いですが、何か(格闘技とか)やっていらしたのですか。

和田 ほとんど自分でやったことはないです。

――『村上海賊の娘』の参考文献はたくさんありますが、歴史小説を書くのは大変なんですね。どれくらいかかったのですか。

和田 取材に1年かけて、シナリオに起こすのに1年かけて、連載が2年ぐらいで、半年くらいかけて直しました。4年半ですね。

――取材は1年なんですか。文献を読むだけでも大変ですよね。古文は得意だったんですか。

和田 普通でした(笑)。人並みです。古文書もがんばれば読めるものです。

――記者の経験もあるのですね。

和田 繊維ニュースというタブロイド判の新聞の記者をしていました。会社名はダイセン株式会社っていいます。

――記者の経験は脚本や小説を書くのに役立ちましたか。

和田 役に立ちました。一つはいろいろなところに取材することが簡単にできるようになりました。フットワークが軽くなった。素人の時は人に取材するのは敷居が高かったのですが、新聞記者になって名刺一枚でどこにでも行けるというのを経験すると、分からないと、とりあえず、行っちゃえという感じで取材に行けるようになりました。
 文章的なことでいうと司馬遼太郎の文章って、新聞記者の文章だなって思いました。『司馬史観』というのがあって、自分の主張があるのですが、それは私が言っているのではなくて、歴史上のこの人が言っていますと引用する。それってまさに新聞のまとめ記事のようですよね。記者は実は言いたいことを言っているんだけれど、その傍証として識者たちがこんなことを言っていると引用しますから。

――和田さんもその手法は使われているのですか。

和田 使っています。

――小説にはテーマがありますが、和田さんの小説は、テーマ云々を考えなくても、とにかく面白い。それはなぜかなと考えたのですが、例えば和田さんが現代小説を書いていたら、テーマは設定せざるを得ないと思います。でも、時代小説ですと、事実の部分が多くて制約はある一方でと、発掘した事実などもあって、テーマを前面に出さなくても面白く書けるのかなと思いました。

和田 小説はまず面白くなければいけないと思って書いています。では何を面白いと読者や観客が言ってくれるかというと、そのために必要なファクターっていっぱいあるんですね。そのなかの一つがテーマであり、あとは、矛盾のない、破綻のない物語だとか、登場人物の魅力であるとか、史実をしっかり調べていますとか、そういうようなことだと思うんです。ただ、それらはあくまで材料に過ぎなくて、テーマでさえ材料に過ぎない。読んでくれた人が面白いと思ってくれれば十分だし、それこそがまさに狙いです。書いていて、音楽的な快感があるようなものにしたいと思います。いい音楽って何回も聴きたくなるじゃないですか。本当に面白い小説って、あの快感が味わいたいからと、何回も読んでしまう。

――和田さんが時代小説を書かれるのは、まずは関心があるからですか。自分が表現したいことが時代小説の形だと表現しやすいとか、何か、別の理由もあるのでしょうか。

和田 戦国ものは読者がいる限り書いていこうと思います。関心もあるし、その時代が僕は陽気な時代だったと思うので、書きたくなります。江戸時代になると、藤沢周平的な、ちょっと物悲しいというか、抑圧されたような感じがあります。戦国時代は、勝手気ままに上司に文句を言ったりする人たちばかりで、江戸時代の武士とは毛色が違うんです。そういう陽気さ、明るさが、僕は気に入っていて、書いています。あとは僕はアクションものが好きなんです。先ほど、ターミネーターとおっしゃいましたが、ターミネーターは大好きで、日本でそういうものができないかな、と思ってシナリオも書いていたんです。当初は現代物を書いていたんですけれど、現代でアクションものというのは、はまらないんですよね。刑事とか暴力団とかは、所詮は一般の人にとってはあまり関心のない対象です。歴史のなかで戦国というと、日本人にはなじみがあるし、戦があって当然だし、調べてみると、アクション映画に出てくるようなド派手な人がいるんです。そういうのは便利と言えば、便利ですね。
 現代物で際立った人物を描くのは、ほぼ無理なんです。『こんな人いないじゃん』ってみんな思うし。違和感を感じてしまう。でも、戦国ものでそうした人物で出てくると、ああ、そうかもね、っていうふうに自然に思えてしまうところがある。

―—戦国時代の日本人は、日本人にもこんなところがあったのか、と感じさせてくれますね、

和田 それは僕も思っています。日本ってこんな島国なのに、剽悍(ひょうかん)な人間たちがすごくいたんだなと思います。それが日本人の本来の姿だったのかなあとも感じます。その感じは僕にとって新鮮でした。

――読んでいて、昔のそういった自由さに憧れることができるという点では現代的なテーマにも通じますね。

和田 ただ、僕が物語のなかで大事にしたいと思っているのは、400年前の感覚と、現代の感覚はまるっきり違うということです。死生観が全然違います。全然違うんだと言うことを実感してもらいたいと思っています。21世紀に生きていて悩んだりしているけれど、時代が違えば全く悩まなくていいことだったりする。小説を、視点を変えるきっかけにしてもらえればと思います。

――全然違うのですか。

和田 史料などを読んだりしていていると、戦国時代の人にとって、命は軽かった、という感じがします。現代の我々から見ると恐ろしいことなんだけれど、その人たちにとっては普通のことなんでしょうね。そういうような感覚だから、そういうような人物として書こうとしているんです。登場人物を現代風に解釈しないというのを僕は鉄則にしています。
 例えば現代風に戦国の世を書くと、平和の訪れを待っているとか書きがちなんですが、この時代の人ってそんなことは考えていないですから。戦はあって当たり前で、やる以上、勝たなくてはいけないとか、思う人たちなんです。

――しかし、当時の価値観まで表現していくというのは大変な作業ですね。

和田 書かれている史実も大事なんですけれど、その時代の人がどういう空気の中で、どういう感覚で生きていたのか、ということを調べるのも、大変重要です。戦国時代のエピソード集みたいなものもあって、そういうものを読んだりすると、ああ、こんな感じだったのだな、というのが分かります。

――『村上海賊の娘』を読んでいても、一つひとつの戦いでも、ああ、こういうふうに考えるのかというのが分かりました。

和田 例えば強敵が現れたとします。現代であれば、『やばい』とか『恐ろしい』とか思うのでしょうが、当時はそれを討ち取ったら大変な出世ができるので、『よっしゃ』っていう感じなんですよ。その感覚って、我々と180度違うから、それをきちんと書きたいと思います。スポーツ感覚もあって、敵がフェアプレー、ファインプレーをすると、あっぱれ、みたいな声が出てくる。それも我々が持っている戦争の感じと違いますよね。そういう違いを楽しんでもらいたいし、そうした感覚を実感してもらいたいですね。

――『のぼうの城』では石田三成が好意的に描かれている気がしますが、歴史的な史料でも、バイアスがかかっていたりしますね。そうしたことにも気をつけているのですか。

和田 忍城の話って、史料のなかでは三成が悪く書かれているんです。「水攻めも失敗して、戦が大変へたくそでした、忍城型はそれに戦としては勝った」という話なのですが、そんな話の何が面白いのだろうと思いました。三成がちゃんとした人で、ものも見えている人であるからこそ、強敵なのであって、そういう人物に勝ったからこそ、忍城の人はすごいわけです。石田三成はそれなりにものが分かっていた人と言う解釈も成立するので、そういう人物として描きました」

――『村上海賊の娘』の主人公を女性にしたわけはあるんですか。

和田「最初は海賊とは真逆にいる人を主人公にしたいと思い、だったら女性かな、と考えました。村上武吉という有名な海賊がいたんですが、それに実の娘がいたら書こうと思い、それが見つかって、書きました」。

――『のぼうの城』の甲斐姫も武術が達者ですが、そういう人が好きですか。

和田 好きです。あと、物語の登場する人物に躍動感がなかったら、物語が転がっていかないという当たり前の理由でもあります」

――富士高校の女性も元気ではありませんでしたか。

和田 都立高校なのに男女が半々で、確かに女性たちは元気でしたね。いい高校でした。でも高校生の女子って、みな元気ですよね(笑)

――女性を取り上げたことと高校生活はあまり関係ないようですね(笑)。高校時代はクラブ活動はやられていたのですか。

和田 恥ずかしながら、やっていませんでした。早く帰ってビデオ借りて映画ばかり観ていました。

――今回、『村上海賊の娘』は100万部以上売れて、本屋大賞と吉川英治文学新人賞を取られましたが、それぞれどんなお気持ちだったのですか。

和田 本屋大賞は読者目線で選んでいるというか、読者の延長線上にあるという感じがする賞なので、いい賞だなと思いました。
 老舗の文学賞は、取ってみて分かったのですが、格別な感じの出来事でした。選考委員の先生にお会いする機会あったのですが、小さいころから知っている名立たる作家がいて、僕の小説を読んでくれていて、旧知の人間のように話してくださったので感動しました。

――本屋大賞でお顔もよく知られるようになりましたが、髭はいつごろからはやされているのですか。

和田 サラリーマンのころからかな。

――ご趣味は?

和田 ほんと、無趣味なんです。唯一の趣味が史跡巡りだったのですが、それも趣味ではなくなってきましたし(笑)。コンクールに脚本を送っているときはそれがお金になるわけではなかったので、趣味と言えば趣味でしたね。

――お父様が因島に子供を連れて行ったり、やはり史跡巡りが好きだったのですか。

和田 当時は、旅行と言えば、名所旧跡しか行く場所がありませんでしたから。娯楽施設のようなものが発達していなかっただけだと思いますが。でも父は教員免許をとって社会を教えていた時期があったようなことも言っていました。史跡とかは嫌いではなかったのでしょうね。

――お父様はお元気なんですか。

和田 もうリタイアしていますが、受賞を喜んでいました。

――大学は早稲田の政治経済学部。

和田 テレビ局に行きたかったので、昔からマスコミに強いと言われた早稲田の政経を目指し、一浪してがんばって通りました。

――テレビ番組の制作会社に入られましたが、ちょっと、思った職場とは違ったのですか。映像づくりもお得意で、そのまま制作会社にいられてもおかしくなかった気もしますが。ゆっくり考える間もなく仕事がくるのが嫌でしたか。

和田 そうですね。ただ、体動かせ、みたいのが合わなかったんですね。4年半もかけて1冊書いていたらバカと言われそうなところでしたから。

――これまで、紆余曲折があって、いまがあると思うのですが、結果的にはよかったのでしょうね。

和田 結果的にはよかったんですが、この先どうなるか分からないので(笑)。

――紆余曲折があっても、和田さんは「これがやりたい」ということがあったから、いまがあるような気がします。

和田 新聞記者をやり始めたのも、脚本をコンクールに送るため、食うためでした。給料をもらうんだったら脚本を書くのに役立つように、書く仕事を選びました。ずっと映画に関わっていきたいと思っていましたね。それがひょんなことから小説を書くようになった。ずっとつながってはいるんですけれど、形は徐々に変わってきた気がします。でも“思い”はずっとありました。

――ありがとうございました。



和田竜(わだ・りょう)氏
1969年大阪生まれ、広島育ち。都立富士高校卒(1988年)、早稲田大学政治経済学部卒。2007年『のぼうの城』で小説家デビュー、同書は累計200万部(単行本と文庫)を超えるベストセラーとなり、2012年映画公開された(脚本も担当)。著書に『忍びの国』『小太郎の左腕』『戦国時代の余談のよだん。』があり、『村上海賊の娘』は小説第四作となる。
 富士高校の卒業生に会うと、ああ、この人は、やはり、富士高卒なのだなあと思うことが多々ある。様々な道を歩むOB、OGに会い、その足跡を追うとともに、富士高生の気質や文化を探っていきたい。
◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇  
 いけばなの三大流派の一つである草月流の師範会理事として活躍されている藤本新子(ふじもと・しんこ 旧姓:大山)さんから若竹会にお手紙をいただき、「草月いけばな展」の日本橋高島屋内の会場をお訪ねしたのは、2013年の10月。大先輩に、お目にかかる前はやや緊張したが、明るく軽快な口調で作品について語ってくださった。
 雅号・藤本遙染(ようせん)と札が置かれた作品は、現代アートのコンポジションのようで、「いけばな」という言葉から想像するものを、いい意味で裏切る、大胆な作品だった。ご自身で焼かれた陶版と乾燥させたウチワヤシ(fan palm)の葉をリズミカルに組み合わせており、土と植物の楽しげなハーモニーが聞こえてきそうだった。その、自由で若々しい構成力に驚いた。





 藤本新子さんは1941年2月生まれ。「育った荻窪の家の玄関にはいつも母のいけた花が飾られていた」と思い出を語る。「花をいけることはあまりにも身近で自然なこと」で、富士高校では、当然のように、華道部に籍を置いていた。しかし、打ち込んだのは新聞部の活動で、原水爆反対運動などの取材もした。理科系の科目と音楽が大好きで、理科系の大学に進学したいと思い、いきいきと高校に通っていた。
 そんな新子さんを突然悲しい出来事が襲った。一家の大黒柱であった、お父様が、新子さんが高校2年のときに突然亡くなったのだ。3年生になると、3人姉妹の長女だった新子さんは、誰にも相談せず自分自身で、就職希望のクラスを選択した。
 卒業と同時に、1959年三菱商事に入社。自然に、華道部に入った。ここで出会ったのが、一生の師となる、草月流の福井草染先生である。個性を尊重し、型にとらわれることなく、自由な表現を求める草月流のいけばな。ほめられて育てられ、いけばなが楽しかった。20歳になると先生のアシスタントを務めるようになる。「アシスタントになってからは、先生は厳しくなり、徹底的に基礎を仕込まれた」。
 それから結婚し、子育ての期間などは、ペースダウンすることもあったが、草月流のいけばなを始めてから55年間、いけばなと真正面から向き合ってきた。今は7つの教室で教えるために駆け回る。これまでにホテルニューオータニや虎屋茶寮、新橋演舞場、中華飯店「聘珍樓」のディスプレイを手がけた。2010年には、いけばなインターナショナルモスクワ支部からの招へいで、初の海外でのデモンストレーション・ワークショップを担当した。 草月流理事以外にも「(財)日本いけばな芸術協会特別会員」「いけばなインターナショ会員」であるため、年間で13~15点もの作品を発表。創作と指導の毎日である。

 藤本さんの出品されている展覧会場に、今年になって再びお邪魔した。
 一つ目は、セントラルミュージアム銀座で開催された「第32回 書といけばなの出会い展」(5/27-6/1)。31人の門下生の方々とともに、昨年とは全く味わいの違う作品を出品されていた。淡いピンクと白の光の中でアンスリウムの花が踊りだしそうな、のびやかさと軽やかさを感じさせる作品だった。
 会場では、「先生!」と声をかけられて、生徒さんたちと談笑する場面を何度も見かけた。生徒さんに聞くと「たくさんのことを、限られた時間内に精一杯伝えようとしてくださる」、素敵な先生だそうだ。生徒さんたちが出品する際には、藤本さんは、自ら制作した花器を貸し出し、細やかにアドバイスをする。ご自分の作品制作にかけられる時間はほんのわずかになってしまうが、生徒さんたちが輝くことを何より楽しみにしている。そんなよき指導者としての一面を拝見することができた。







 もう一つは「草月いけばな展」(新宿高島屋6/5-6/10)。こちらは「次世代へのメッセージ みどりの瞬間(とき)」というテーマをもとに、「生」「楽」「激」「静」「優」という5つの場から構成され、「現家元の時代の風をしっかり捉えた大胆な作風」を中心に据えた展示会場は、そこに身を置いていること自体がここちよい空間に仕上がっていた。
 「楽」という空間に展示された藤本さんの作品は、植物の蔓で椅子をかたちづくり、今年のこだわりの色ピンクを添え、音楽を聴いて癒されたいという思いを込めて、小さな「楽譜」を散らしている。手によって一から編み上げられた作品は、見る人に安らぎを与えると同時に、静かなエネルギーに満ちているようだった。









 草月流の勅使河原蒼風、霞、宏、茜、4代の家元の異なる個性と作風のもとで、自分の力を蓄えていった藤本さん。「学びと感謝」の気持ちで、ひたすら歩んできた。
 しかし、流派の中での地位が上がっていくにつれて、高卒であるがゆえの悔しさを味わうこともあった。50歳の頃、「自分にもっと自信をつけたい」という思いで、通信教育で「武蔵野美術大学短期大学部・デザイン科ディスプレイコース」を履修した。忙しいなかで課題や試験をこなし、スクーリングにも出席。時には徹夜することもあったという。56歳で同コースを卒業。現在は同大学の校友会埼玉支部の副支部長を務める。
 このほかにも、「植物造形」「陶芸」「書道」など、いけばなの周辺のアート、デザインを学ぶ、研鑽の日々である。


{ご自身のこれまでの作品について、振り返りながら語る藤本新子さん}

 昨年、たまたま、自宅に届いた同窓会誌『若竹』の封筒を開いてみた。それまで「暗い顔をしていたにちがいない高校時代」を振り返る気にはなれなかったが、ページをめくっているうちに、「私も元気にやっています、ということを知らせたくなった」。
 今年73歳になった藤本さんだが、「100歳を超えて現役で花をいけている方もいる。その方を目指したい」という。「作品のアイディアが降ってくる限り、作品づくりも続けたい。朽ち果てるまでが人生。花の枯れゆく様もまた味わい、という言葉もあります」。
 自分が楽しむだけでなく「後継者づくりも課題にしたい」という藤本さん。草月流の作風のなかで、基礎をきちんと学んだうえで豊かな表現力を身につけていくことの大切さを、次の世代に教え伝えていきたいという。
                        (高校27回卒・落合惠子)
 都立富士高校、附属中学校に、今年4月、上野勝敏校長が着任した。中高一貫校の2代目の統括校長として手腕が期待される。一貫校でどんな教育をしていきたいのか、若竹会と協力をどう進めていきたいかを聞いた(インタビューは6月12日、富士高校卒業生の安倍宏行さんの中学2年生向け講演の後、行った)。



――中高一貫校として富士高校がスタートして今年の4月から5年目がスタートしました。4月に着任され、どんな印象を持たれましたか。

上野 私はずっと都立高校で仕事をしてきましたので、中学校の入学式で、小学校を卒業したばかりの子どもたちを初めて迎え、新鮮でした。
 “異年齢交流”というのが本来、学校にたくさんあればいいと思っていました。たとえば、老人施設が小学校の近くにあれば、老人と子どもたちという年齢の違う人たちの交流ができます。そんなことを思い描いてはいたのですが、中学生と高校生も“異年齢”なのだなと実感しました。都立高校に通っていて、家に弟や妹がいるというのは珍しくないのですが、中学生が同じ敷地内にいることはあまりありません。高校生は「中学生の前で恥ずかしいことはできない」と思うでしょうし、附属中学の子どもたちは高校生をみて「すごいなあ、私もああなりたい」といった形で、近いところで、相互に刺激があると思うのです。
 それは中高一貫校の思わぬ波及効果なのではないでしょうか。中高一貫校を創設するとき、当然、長所としては挙げられていたこととは思いますが、それが、予想以上に、子どもたちにいい刺激になっているのではないでしょうか。

――確かに、6年間で一貫した教育が行えるということに重点が置かれていて、“異年齢交流”は、それほど注目されていなかったかもしれませんね。

上野 先日、体育祭があったのですが、中学生からみると、高校生は、本当に大人なんですね。自分の学校に行って、大人がいる、というのは、中学生にとって、すごいことなのではないでしょうか。同じ空間に大人のお兄ちゃん、お姉ちゃんがいる。

――実際に中学生と高校生が交流する機会は多いのですか。

上野 附属中学校でもクラブ活動や行事は別という学校もあります。でも富士は、クラブ活動も行事も一緒にやっています。

――クラブ活動も一緒なのですか。

上野 高校ではクラブ活動の顧問は学校内にいればいいということになっているのですが、中学校の場合はクラブ活動の顧問は必ず生徒の近くにいなければならないという決まりです。ですので、部活動の顧問は中学と高校にそれぞれいます。しかし、できるところはなるべく、一緒にやっています。

――オーケストラなども一緒に活動をしているのですか。

上野 練習も一部、一緒にやります。でも発表の場が、中学校の部と高校の部に分かれますので、レギュラーは別々にしなければなりません。合同練習はできますが、大会に備えての本番練習になると別々にならざるを得ません。

――球技のクラブは一緒に練習できるとレベルアップができそうですね。

上野 高校にはJリーガーだった人が外部コーチとして来ています。中学校のクラブ活動ですと外部人材の活用まではできないことが多いようですので、中学生にはメリットがあると思います。

――高校生が中学生に勉強を教えるような交流もあるのでしょうか。

上野 高校生が中学生を教えるというのはこの学校の特長になると思いますので、これから増えてくるでしょう。たとえば、中学校3年からは「探究未来学」ということで、自分でテーマを決めてリポートを作る授業が始まり、高校2年まで続きます。発表会がありますし、お互いのリポートを見せ合うような機会がありますので、交流が活発になると思います。
 また、中学3年から高校2年までは同じ自習室で勉強します。

――自習室というのは?
 
上野 家庭に帰って勉強するというのが今までは普通だったと思うのですが、家に帰ると勉強が手につかないが、学校だったら勉強できるという子もいますので、学ぶ空間を用意しています。あこがれの先輩と一緒に勉強ができるのはうれしいですよね。
 多くの都立高校は場所がないので、図書室を自習室にせざるを得ないのですが、富士は定時制があった時代もあるものですから、施設に若干余裕があります。その有効利用で、高校3年生用の自習室と、中学3年から高校2年までの自習室を用意しています。

――半分は高校から入学する人がいて、全員が中高一貫教育というわけではありませんが、中高の6年間でこんな教育をしたいというビジョンはありますか。

上野 富士の卒業生はグローバルに活躍する人が多いと思うので、英語は、コミュニケーション能力と捉えて、6年間、しっかり学んでもらいたいです。

――高校の修学旅行も海外なのですね。

上野 受益者負担ですから保護者の方には覚悟をしていただいているのですが、効果は高いと思います。物見遊山で海外旅行に行くのではなく、マレーシアの学校と交流しますから、得意になった英語を試すこともできますし、マレーシアの生徒と友達になることもできます。

――昔だと、友達になっても手紙をやりとりするしか方法がなかったわけですが、いまはメールがありますから継続して交流がしやすいですね。

上野 そうですね。英語さえできれば、友達の関係を続けられますね。

――英語に関心があり、世界に目を向けている子供たちは多いようですね。

上野 いまは英語教育が富士の特色なっていて、「富士に行けばたくさん英語が学べる」と思って入学してくる英語好きの子どもが多いです。



――今日は中学2年生に、「社会とのつながりとしての仕事」について富士高校のOBである安倍宏行さんにお話をしていただきましたが、安倍さんのお話に対して中学生の反応が急によくなり始めたのは環境問題が話題になっているときでした。国内の問題が国内にとどまらず、地球全体に影響を及ぼすのが環境問題ですが、そうした視点も学んでいるようですね。

上野 ジャーナリストがおっしゃっていることなので、「学校で学んでいることは本当なんだ」という感じでしたね。ふだんの勉強が深まったのでしょう。流暢に英語を使いこなし国際問題を語る大先輩に、憧れの気持ちもあったと思います。
 「探究」の授業では地球規模の問題や世の中の動きについても、自分なりに調べますので、「深まっていく」経験をこの学校の生徒はしています。
 今日は「進路探究」とい、自分たちの生き方、あり方を学ぶ授業の一環でした。授業のなかに先輩の話があったりすると効果的だと思っていましたの、今日のお話はありがたかったです。
 今後も今日のような形で先輩方から、いろいろな話をしていただけると、授業の一環として実施できます。

――進路探究というのは興味深い授業ですね。

上野 いま、私たちは「進路学習」というより「キャリア学習」といっています。進路というとどこの大学に行くとか、目の前のことを決めるイメージなのですが、いまは60歳以降も生きている限り、自分の人生をどうやってデザインしていくかが課題になっています。そういう「キャリアデザイン」という観点で子どもたちに人生を考えてもらうのが進路探究なのです。

――そんな先まで考えているのですか。

上野 大学さえ入ればいいわけではなく、そこから先の長い人生をどう描いていくかを考えてもらいます。
 今日の安倍さんのお話を聞いて、たぶん「余生はないのだな」と感じたと思うのです。余りの人生はないと。「生きている限り充実していないと、だめなんだ」と気づいたと思います。

――余生などない。60歳以降もどう生きるかを考えなければいけないというのは、大人でも最近、わかってきたことだと思うのです。

上野 終身雇用が崩れ、多難な人生が待っているのだと思います。順風満帆の人生は普通はないわけで、入った会社に退職までいるということも難しくなってくる時代だと思うのです。その意味で、ぶれることなく自分を大事にしていくことを学校で教えないといけません。
 子どものときにいい教育を受けて、いい発想法を学んでおくと強いと思うのです。頭が柔らかいときに多様なことを知っておくことが必要です。
 「認知の網」を広げるだけ広げてほしいです。

――「これは自分に関係ない」と思うのではなくて、いろいろなことを認知できるように幅広く関心を持とうということですね。

上野 ストライクゾーンを狭くしておくと、そこだけで終わってしまうので、とにかく広げるだけ広げていくというのがいまの学校の重要な役割だと思います。



――我々、卒業生はいろいろな形でご協力できそうですね。

上野 いろいろなところを歩かれて広く世界、世間を見てきた人が子どもたちに語りかけるお話には、一言も無駄はないです。生きた教科書だと思います。

――最近は、おじいちゃんやおばあちゃんとは別居していますし、近所付き合いも深くしないので、子どもたちは、あまりいろいろな大人を見る機会がないのではないでしょうか。

上野 異年齢交流が本当にないので、強いて学校というところで用意して、機会を設定してあげたいと思います。この若い多感な時期に、たくさんのことに触れてもらいたい。

――同窓会活動をしていて、若い世代に呼びかけても、あまり反応がありません。中学校、高校にいる間に、卒業生が後輩に接する機会をもっと作れば、同窓会の世代間交流も進むかもしれません。一緒に交流の舞台を作りたいですね。

上野 長い人生を歩んできた先輩だから、子どもたちの目線になって語りかけられることがあるのだろうと思います。人生の語り部が若竹会にはたくさんいらっしゃるのに、その方々との交流がまったくないのは、もったいないと思います。

――今回の進路探究の授業でお話できると言ってくださった卒業生のなかに、男女雇用均等法第一世代の女性がいらっしゃいました。働く女性のロールモデルとしてご苦労されたと聞いています。こうした方ははじめ、女性の生徒さんにお話されたほうがいいかとも考えたのですが、校長の「ストライクゾーンを広げる」というお考えに沿えば、男性にも聞かせるべき話だと思いました。いろいろなご協力ができそうです。

上野 子どもたちが気づいていないような分野のお話でも、そんなところに自分との接点があるんだということがわかって、刺激になると思います。

――今回は進路探究の授業の一環でしたので「仕事」がテーマでした。だれでも話せそうで、逆に難しいテーマでした。もう少し具体的なテーマですと、いろいろな卒業生に声をかけられるのですが。

上野 「こうでなければならない」と決めているわけではないのですが、「この方のお話を聞くと、子どもたちにこんな気づきを与えられる」といった、事前の打ち合わせはしっかりしたいですね。

――授業も担当される現場の先生が、こんなお話をしてくださる方はいないか、と早めに相談してくだされば、我々も卒業生のことが全部わかっているわけではないので、適当な人材を探すなどのアクションは起こせます。

上野 高校生は受験モードに入っていて、個別具体的なガイダンスに時間がとられてしまいますが、附属中学校の子どもたちには、先輩のお話をうかがえるような時間的なゆとりがあります。

――富士高校の卒業生は、「社会貢献をしたい」「若い世代を育てたい」という気持ちをお持ちの方が多く、きっと後輩のために、中学生の目線で話してくれると思います。

上野 中学生の子どもたちにバトンを渡すような気持ちで、これからも卒業生の皆様の御協力をお願いします。中学生たちは聞くもの見るもの、すべて初めてなんです。一気に40年くらい下の中学生にバトンを渡すのは、難しい部分もありますが、影響も大きいと思います。「次世代へのエール」としてぜひ、お願いします。

              (インタビュー・構成/高校27回卒・相川浩之)
上野勝敏(うえの・かつとし)氏
昭和33年、岐阜県下呂市で生まれる。昭和56年、東京都に入都。社会科世界史の教諭として玉川高校で教員生活をスタートさせる。その後、成瀬高校、第二商業高校、野津田高校、副校長で三鷹高校(定時制)4年、小川高校4年、校長で永山高校3年。その後西部学校経営支援センター2年を経て、この春富士に着任。
                      


 どんな仕事をするにしても、「社会のために」と考えてほしい。常に好奇心を失わず、趣味や勉強を継続し、ネットワークを広げていってほしい。そうすれば、必ずいい人生を送れる――。都立富士高校のOB(高校26回卒)である、ジャーナリストの安倍宏行さんが6月12日、都立富士高校附属中学校の2年生約120人の前で、「働く意義」「職業を通した社会との繫がり」というテーマで、自らの仕事への取り組みや国際人として生きることなどについて、わかりやすく語った。1時間、安倍さんの話を聴いた中学生たちは、心のスイッチが入ったようで、講演後は質問が絶えなかった。



 今回の富士高校OBの講演は、上野勝敏校長が講演に先立つあいさつで、「ビッグプレゼント」と評したように、若竹会から現役中高生への贈り物だった。
 
 後輩たちのために、できることは何でもしたい。それこそが同窓会の存在意義――。そんな若竹会のメッセージを上野校長が受け入れてくれて、実現した。

 中学生たちが、自分のライフデザインを考える第一歩となる「進路探究」という授業。そのスタートで、「働く意義」「職業を通した社会との繫がり」をわかりやすく語ってくれる卒業生はいないか。

 進路担当の先生の要望にこたえられる人をフェイスブックの若竹会の集まりで募ったところ、真っ先に名乗りを上げてくれたのが安倍さんだった。
 
 安倍さんはフジテレビでキャスターを務めていたが、昨年9月に退社。ウェブで新しいニュースメディア「Japan In-depth」を立ち上げた。

 慶應義塾大学経済学部を1979年に卒業後、日産自動車に入社。自動車の輸出業務に携わり、海外で活躍したが、1992年、36歳の時にフジテレビに転職した。報道局で政治・経済を担当。ニューヨーク特派員・支局長も経験した。その後、ニュースキャスターとして活躍した。多彩な経歴は、中学生たちの関心を集めた。



「校庭と校舎の位置が昔は逆だった」「いつの間にか中高一貫校になっていた」。PCとスクリーンの接続がうまくいかず、PCでの説明は諦めて、中学生の前に立って、話し始めた安倍さん。
 
 生まれて初めての中学生の前で話す経験。初めは距離感を計っている感じだった。

 「君たちは生まれながらにデジタルの環境があった『デジタルネイティブ』。
デジタルネイティブって知ってる?」。
 中学生たちはきょとんとしている。

 「昔はインターネットはなかった。PCなんて持っていなかった」。
 「大学2年生のときにアメリカに2ヵ月ほど滞在して、初めてアップルのコンピュータを見た」。
 「英語は日本人の先生が教えていた。そもそも外国人が日本にあまりいなかった。英語が好きで、外国人と話してみたいと思ったが、外国人が歩いていない」。

 「光が丘団地は昔、米軍の住宅、『グランドハイツ』だった。そこで覚えた英語をとにかく使ってみた。わっちゅあねーむ、うぇあどぅゆぅりぶ。変な中学生と思われただろう」。
 「ビデオもない時代。英語はラジオ英会話で暗記した。そのとき覚えたフレーズは忘れない」。

 「若い時に覚えたことは忘れない。大事なのは覚えたことを応用すること」。

 「6年生のときの文集に『国連大使になる』と書いていた。国連では働かなかったが、世界とつながる仕事をした」。





 中学生たちとの違いと共通点を確認しながら、話はだんだん、核心に入っていく。

 「日産自動車に入って、辞令を受けた。中近東。中近東って分かる?」

 安倍さんとしては、簡単な質問で、中学生たちの緊張をときほぐそうとしたのだろうが、返事がない。

 安倍さんは、サウジアラビアに車を輸出していた。25~26歳のころ。気温は46~47度もあった。
 「クルマの85%が日本車だった。日本のクルマは壊れないから。砂漠で自動車が止まったら死んでしまう。世界中の人が日本車を買ってくれた」。

 「外に出ないとわからないことが、いっぱいある」「日本製品、海外で働く日本人」「常に世界と日本の関わり方を考えてほしい」

 「いま、世界は微妙にリンクしている。日本が一番貿易している国は?」
 「そう、中国なんですね。仲が悪いみたいに言われているけれど、お互いのマーケットは大事。だからこそ、仲良くしないと、両国にダメージが及ぶ」。

 「経済の世界では、いろんな国がいろいろな形で結びついている。日本は原発が止まっているので、化石燃料を買っている。空気中にあるものがいっぱい排出される。そう、CO2ですね。CO2は分かるんだ。ばかにできないね」。
 「CO2が排出されると地球が温暖化する。グローバルウオーミング」。
 なぜか、ここで中学生は盛り上がる。英語の授業で、グローバルウオーミングを学んだばかりだったらしい。

 

 「原発の問題は日本の問題だが、世界の問題でもある」。
 「グローバルに考えよう。日本の課題と世界の課題は密接にリンクしている」。

 「みんなは中学2年生。将来何をしたい?」
 「なりたいものはあるけれど、心の中に秘めている人?手を挙げて」

 10人くらいが手を挙げる。
 ゲームプログラマー、アナウンサー、塾の先生(なぜか拍手)。 

 

 「グローバルに仕事をするには、英語が必要。英語はだれに習っているの?
アンソニー、カナダ人…ですか」。
 「僕はずっと英語を習っている。子供の時から。継続は力なり」。
 「なぜ継続は力かわかる? 人間は継続しない動物だから。ほとんどの人は継続しない。どこかでやめて、後悔する」
 「継続する人があまりいないから、継続が力になる」「自分が好きで子供のころからやっているものは、絶対やめない方がいい。人生が救われることが必ずある」。

 「英語も続けるべきだ。でも、所詮、言葉。うまくなくていいから続けよう」。
 「どんな仕事をするにしても英語は必須。英語ができたらトムクルーズにインタビューできる。通訳を介してじゃなく、直接、話せたら、Facebookで友達になれるかもしれない」。
 「英語だけは諦めないほうがいい。諦めて、後悔している人をたくさん見ている。グローバルな時代になると、何事も国内で完結しない。ゲームデザイナーになるにしても、日本ではやっているゲームと海外ではやっているゲームは違うから、英語ができたほうがいい。日本語とあと2つくらい言葉ができるといい。僕はスペイン語とフランス語はできる」。

 

 話は「どんな仕事がしたいか」に戻る。

 「なんのために仕事する?」
 中学生たちは、いつの間にか、なんでも答えるようになっている。

 「お金のために」
 「会社を向上させるために」
 「自分がよりよく暮らせるために」
 「愛のため」(笑)
 「自分を成長させるため」(感嘆の声)
 「世の中の役に立つため」

 ようやく安倍さんが求めている答えが出てきた。



 「人って自分のために仕事する。労働の対価として賃金を得る。自分のためだけれど、みんな、社会の一員。一人では何もできない。自分のためは、実は社会のためでもある」。

 「一緒にキャスターをしていた滝川クリステルさんが動物の殺処分をゼロにしたいと財団を設立した」。
 「日本でどのくらいの犬や猫が殺処分されているか、知っている? 16万頭」
 「ドイツでは一匹も犬や猫を殺していない。シェルターで動物を保護し、引き取り手を見つける」
 「日本では保健所で犬や猫は窒息死させられる。これをゼロにしようという活動を始めた」。


 「『明日、ママがいない』というドラマは知っている?児童養護施設に入っている子供たちの話。そういう施設に何人、子供たちがいるか知っている?」
 「4万人くらいいる」。
 
 安倍さんは、そのうちの赤ちゃんを施設から里子に出そう、養子縁組しようという活動をしている。そのために国会議員のところに行って、法律を変えるか新しく作れと訴える「ロビーイング」をしている。

 「これは対価を得る仕事ではないけれど、世の中のためにしている、広い意味での仕事」。

 「パラレルキャリア。並行していろいろなことをすることがこれからは必要」。
 
 「いろんな仕事をしている人がすごく増えている。それは東日本大震災以降の流れだ」。

 「それまでは、日本は安全な国といわれた。ところがそんな“常識”が、意外に簡単に壊れた。放射能漏れの事故が起きるまで、電気が何で作られているかさえ気にしていなかった」。

 「いろいろなものが崩れ去る。常識と思っていたことが違うということがわかった。いろいろな活動を、仕事以外にもしよう。そう思う人が増えた」。

 「どんな仕事するにしても社会に対していい仕事をしてもらいたい。それが結果的に自分のためになり、お父さん、お母さんのためになり、子どものため、親友のため、愛する人のためになる」。

 「あなたたちは、何年かしたら社会人になる。どんな仕事をしても、かまわない」。

 「でも、いつも、社会、世界を意識して」。

 「自分のためだけと考えたら寂しい」「社会や世界を考えたら、自分の胸の中に誇りが生まれるでしょう?」。

 「アメリカの大金持ちも偉い人が多い。例えば、ビル・ゲイツは、最近は私財を投じてHIV(ヒト免疫不全ウイルス)撲滅のためにお金を使っている」。

 「キャリアって、一つじゃない。最初にどんな仕事につくかは重要ではない」。

 「土曜日の夜にネットの「ニコ生」(ニコニコ生放送)を担当しているが、今週は、女子高生の企業経営者に出演してもらう。震災以降、震災対策となる日本の技術を世界に輸出しようとしている。そんな人もいる」。

 「キャリアというのは一生に一つではない。2回、3回と転職してもいいし、大企業ばかりが働く先ではない。日本の企業の99%は中小企業。個人事業主をやってもいい。一人ひとりが会社をつくって大きくしてもいい」。
 「自分のやりたいことは何か、自問自答しながら、やってください」。

 安倍さんのやってきたこと、中学生たちに取り組んでほしいことが、歩み寄ってきた。

 安倍さんは、「最後にみんなに三つの大切な言葉をプレゼント」。

 「一つ目。好奇心を忘れるな。好奇心があれば、人生がカラフルに、楽しくなる。いろいろなものに首を突っ込もう」。

 「二つ目。継続は君たちを助ける。趣味だろうが勉強だろうがなんでもいい。継続すれば、人生が豊かになる」。

 「その結果、できるのがネットワーク。ネットワークをちゃんと持っていると強い。友達に助けられることがごまんとある。ネットワークをつくり、広げよう」。

 質疑応答では、質問が止まらなかった。
・転職2回されたけれど、きっかけはなに?
・アナウンサーになるためには、どうすればいい?
・自動車メーカーの後、なぜジャーナリストに?
・アナウンサーの年収は?
・英語はどのくらい勉強している?
「時事問題は、新しいボキャブラリーが増えるので、週2回マンツーマンで時事について英語で先生と話す。週1回朝活で英語を学んでいる。英語で考えることが大事」。
・大学生の時の短期留学について。
・趣味
「お前はOLかと言われている。英語、フランス語、書道、バイオリン。スポーツは、スキー、ジョギングなど」
・好きだった科目。
「英語、国語、数学」。
・15歳の人が会社を立ち上げられる?
・富士高校の思い出
・番組を通じて親しくなった著名な人

 質問は尽きなかったが、このあたりで講演は終了。



 中学生の代表から「お礼の言葉」があった。

 「私たちも将来の仕事のことを考えなければならない時期になっている」。

 「仕事の大切さがわかった。これから、自分たちでも調べたりして、今日の話を役立てていきたい。ありがとうございました」。

 中学生たちは「感想」を手紙にして安倍さん出すそうだ。

                        (高校27回卒・相川浩之)
2012年10月に第一回を開催した「若竹会同窓生講演会」も、3回目を迎えた。

5月10日(土)、今回は高校9回の卒業生であり、幟旗の収集家・研究者の北村勝史(よしちか)氏をお招きし、高円寺地域区民センター「セシオン杉並」の展示室を使って行った。 

会場には、朝9時から約3時間かけて、北村さんご自身の手でコレクション30余点が壁やパネルに展示され、タイトルの「江戸期の幟旗の魅力―端午の節句に因んで―」にふさわしい雰囲気が出来上がった。



北村氏は、1938年静岡生まれ。小学生の時、骨董を愛したお父様から言われた言葉「お前には骨董のセンスがある」が、忘れられないという。

そのお父様が亡くなられたあと、小学校5年生の北村少年はお母様とお兄様と3人で東京・中野で暮らし始め、中野第三中学校を経て、都立富士高等学校へ進学。

当時の富士高は女子が200名に対し男子が100名。優秀な女子が多く、圧倒的に女性上位。進学のための勉強漬けの3年間であったが、大学に入学し、それぞれの進路が決まった頃、高校の仲間との楽しい交流が再開したということだ。「清らかで、純粋な時代」として今も大切に心にしまわれているという。



立教大学経済学部を卒業された北村さんは、日本IBMに入社。最後の職場の人事部ではリストラを推進したが、ご自身も早期退職の道を選び、第2の人生を歩き始めた。55歳のときのことだ。



IBMで身に付けた経営計画策定の方法を生かし、まず75歳までの自分の人生をプランニング。30代から少しずつ始めていた骨董品、中でも幟旗の収集に本格的に取り組むことにし、家賃や人件費がかからない露天商という仕事を選ぶ。

神社の境内などで見かける露天商。サラリーマンから露天商へという転身は大胆だ。北村さんご自身も、「大変だった」と述懐される。



それから20年が経った75歳のいま、北村さんは「目標として掲げたことは、すべて実現できた」と語る。質の高い幟旗コレクションができあがり、国内外の美術館で発表することができた。本も出版し、大学では講師として教鞭をとる。そして、これから90歳までは、「第3の人生」を計画されているという。

「先に目標を掲げることで、そこまで人は寿命を与えられるような気がする」。
常に目標を持ち計画することの大切さを繰り返された。


(オランダ・ロッテルダムでの展覧会)

北村さんが、第2の人生の中で、大事にされてきたのは、多くの人との出会いであり、その出会いを疎かにせず信頼関係を築いてこられた。

会場にも持ち込まれたスクラップブックの中には、一つひとつの出会いを大切にする北村さんの人生そのものが詰め込まれていた。



北村さんご自身の生い立ちとコレクションの成り立ちについてのお話のあと、幟旗の歴史や鑑賞方法、端午の節句のいわれなども短い時間の中でたっぷりと聴かせていただく。

神社に奉納された幟は信仰の対象であり、五穀豊穣や子孫繁栄の祈りが込められ、節句幟には、子の健やかな成長を願う思いが込められているものである。飢饉によって多くの人が亡くなった江戸時代には、こうした「祈り」は「逆境からの脱出」というポジティブなものであり、幟旗からはその迫力・エネルギーを感じとることができる。

「鯉のぼり」は、鯉が急峻な瀧に何度も挑戦し、登り切ったものが龍に出世するという「登龍門」の話から生まれた。子に託す親の願いがこもっているのである。



今回は92人の出席者のうち、約3分の1が北村さんの同期の方々。講演会終了後には北村さんを囲む温かい交流の輪ができていた。
 

(高校9回卒の同期の方々)

約20年先を歩まれる北村さんのお話は、私にとって示唆に富むものであった。
そしてまた、コレクションの展示陳列や後片付けをお手伝いさせていただくなかでも、今日一日多くのことを学ばせていただいた。 (高校27回卒・落合惠子)
 富士高校の卒業生に会うと、ああ、この人は、やはり、富士高卒なのだなあと思うことが多々ある。様々な道を歩むOB、OGに会い、その足跡を追うとともに、富士高生の気質や文化を探っていきたい。
◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇  
 第二回は、東京女子医科大学医学部教授の野村実さん。

 5月9日夜、映画「救いたい」の完成披露試写会が東京・汐留のスペースFS汐留で開かれた。



 麻酔科医(独立行政法人国立病院機構仙台医療センター麻酔科医長、手術管理部長)の川村隆枝さんが著した単行本『手術室には守護神がいる』(パコスジャパン刊)を映画化したものだ。
 
 手術には必ず麻酔科医が立ち会う。というか、麻酔科医がいなければ手術はできない。手術の前に麻酔をかけ、痛みから患者を救うことだけが、麻酔科医の仕事と、我々は思いがちだが、患者は麻酔をかけると「呼吸さえ自分でできなくなる。呼吸をさせ、患者の体温や血圧に問題はないかを手術の間中、見守るのが麻酔科医の仕事」(野村さん)だ。

 2011年3月11日の東日本大震災の時も、川村さんは手術中の患者を守るのに力を尽くしたという。しかし、東北地方に限らず、地方の病院では慢性的に麻酔科医が不足し、手術がなかなかできない状況にある。
 
 そんな実態を知らせたいと川村さんは『手術室には守護神がいる』を著した。そして、第17回日本心臓血管麻酔学会(仙台)仙台大会の大会長を務めたときに、仲間の麻酔科医たちにこの本を配布したのが映画が作られるきっかけとなった。

 日本心臓血管麻酔学会の副理事長を務める野村さんは、川村さんの「さらにこの本を映画化し、世の中に麻酔科医の役割を伝えたい」という思いに賛同。寄付金集めに奔走した。

 野村さんが頼りにしたのが、「蜩ノ記」「最後の忠臣蔵」「ハチ公物語」などの制作で知られるエグゼクティブプロデューサーの鍋島寿夫さん。
 監督・神山征二郎氏、出演・鈴木京香、三浦友和、貫地谷しほり、藤村志保、津川雅彦…というそうそうたる顔ぶれが揃った。

 余談だが、鍋島さんの奥方と、お子さんは富士高校卒業(若竹会のメンバー!)だという。


(川村さんと野村さん)

 映画は、麻酔科医のドラマチックな活躍をどきどきしながら見るというようなものではなかった。
 東日本大震災に翻弄されながらも力強く生き抜く東北の人たちと、彼らを助ける医師たちの地道な努力、そして医師と患者や地元の人たちとのふれあいを丁寧に描いていた。
 実話に基づいた映画であり、一番伝えたいのがタイトルの「救いたい」という気持ちなのだろう。
 
 野村さんは映画の撮影でも何度も撮影地の仙台に赴き、鈴木京香や貫地谷しほりに麻酔科医の演技指導もしたという。

 野村さんによると、麻酔科医はベテランになると、執刀はしなくても手術の可否などにも意見をする。オーケストラの指揮者のような役割も果たすのだ。指揮者があらゆる楽器に通じているように、麻酔科医は内科にも外科にも通じていて、外科医よりもより広い観点から意見を言う。

 患者の立場に立って、時には手術を主張する外科医に対し、手術に耐えられない可能性が高いからと、化学療法を提案することも多いという。「麻酔科医の意見はセカンドオピニオンと考えている」と野村さん。

 野村さんの話を聞いていて、この映画はぜひ、高校生に見せたい、と思った。公開は11月22日。新宿ピカデリーほか全国の100館程度で上映。前売り鑑賞券の売り上げの一部は地域医療の振興のために寄付するという。    (高校27回卒・相川浩之)
 富士高校の卒業生に会うと、ああ、この人は、やはり、富士高卒なのだなあと思うことが多々ある。様々な道を歩むOB、OGに会い、その足跡を追うとともに、富士高生の気質や文化を探っていきたい。
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 第一回は、水墨画家の海野次郎さん。
 築地・茶の実倶楽部で4月14日から19日まで、開催されている「海野次郎展」にお邪魔した。



 お茶の美味しい「うおがし銘茶」築地新店の5階にある会場に向かった。
 高い天井。モダンなアートスペースに海野さんの水墨画がところ狭しと展示されている。水墨画ならではの味わいのある作品もあれば、墨のなかに色を置き、心地よい緊張感を生み出している作品もあり、海野さんの世界に引き込まれていく。



 これまで「水墨画」は、単に、「墨で描かれた絵」と思っていたが、海野さんの話を聞くと、そんな単純なものではないということがわかる。中国から水墨画の技術がもたらされ、日本古来のやまと絵と習合し、狩野永徳や長谷川等伯など多くの画家がその過程で悩みつつ、試行錯誤を重ねてきた。そして俵屋宗達によって完成をみた、というのが海野さんの解釈だ。
 ところが、この貴重な伝統文化が、「現在の美術教育の中で、引きつがれていない」という。
 高校生のころ、何度も通った国立博物館のなかで、水墨画に接しているうちに、「描かれた水墨画が語りかけてきた」。
 海野さんにとって水墨画との出合いは運命的なものだったのだ。何百年も前に描かれた水墨画は、前衛的なダダの絵画と同じくらい、新しく創造的なものに感じられた。
 それ以来、どうしたらあのように描けるのかを考えてきたという。
 京都市立芸術学部日本画科で学ぶが、その答えは得られなかった。


(海野次郎さん)

 1986年、東京奥多摩町に転居。画房「曇華庵」を開き、水墨画の題材になりそうな風景と毎日接しながら、水墨画とは何なのか、その答えを求め続けた。
 なんとか満足できる作品を描けるようになり、東京で個展を開催したのは1997年。45歳の時だった。
 遅咲きの水墨画家を同期の渡邊由紀子さんらが応援。その後、水墨画を描きながら、さらにその本質を求め、探究を始める。

(同期でプロデューサーの渡邊由紀子さん)


(左=伊藤比呂美さんの詩に絵をつけた詩画集も制作、右=自ら詩を朗読)

 京都で出会った日本画の材料屋の伝手を頼って、筆師、紙屋、表具屋など、様々な人たちに会った。彼らは、かつての絵師たちが、どんな筆や紙を使って水墨画を描いたかを具体的に教えてくれる教師だったのだ。彼らから、伝統技術を学び取り、「水墨画」の本質に迫っていく。中国文明や西欧文明を取り入れながら、培ってきた日本人独自の美的感覚、それは「間」の感覚だという。間は空虚なものではなく、そこに存在するものであり、色も間も、墨も、すべて「物質」。それを構成するのが、水墨画だ、と海野さん。
 「俵屋宗達が何をしたかったのか、そして水墨画が何なのかが、最近、ようやく分かってきた。そのことを若い世代に伝えていきたい」と語る。
 海野次郎さんの個展は5/3~5/11、GALLERY CAPARISON(三鷹市下連雀2-12-29山本有三記念館隣り)でも開催される。11時~18時(最終日17時終了)、月曜休廊。                 (高校27回卒・落合惠子)

海野 次郎(うんの・じろう)さん略歴
1952年 7月15日 東京都に生まれる。
1975年 京都市立芸術学部日本画科を卒業。
1986年 水墨画研究のために東京奥多摩町に転居。画房「曇華庵」を開く。
1997年 東京にて個展。水墨画の発表を開始。
1999年 京都にて個展。2001年~現在、毎年開催。
2010年 『水墨思想―日本美の展開とグローバリズム時代の「間-Ma」』上程。
個展を中心に活動。個展多数。